種名 | ミヤコショウビン Halcyon miyakoensis |
性別 | 不明 |
番号 | YIO-00071(山階芳麿コレクションNo. 26246) |
拾得日 | 1887年2月5日 |
採集地 | 沖縄県宮古島 |
ミヤコショウビンは、1887(明治20)年2月に南部琉球の宮古島で採集された、ただ1点の標本のみで世界に知られています。これ以前にも以後にも観察、採集、撮影等まったくされておらず、空前絶後の標本1点しか生息の証拠のない謎の鳥なのです。
ミヤコショウビンはカワセミ科に属し、全長がおおむね20センチあります。頭部と胸・腹は、橙色みを帯びた褐色で、嘴のつけねから目の後ろまで黒い帯状の部分があり、左目の上には小さな白斑が認められます。背中、翼、尾は光沢のある青色をしています。標本が古いためくすんだ色をしていますが、生きているときは大変美しい鳥だったと考えられます。
ミヤコショウビンを新種と認めて発表したのは黒田長礼という、日本の鳥類学の草分けの一人です。山階鳥研の前の所長である黒田長久のお父さんです。黒田長礼が1919(大正8)年に発表した論文には、命名のもとになった標本が、明治 年2月5日に宮古島で田代安定によって採集されたこと、現在東京帝国大学(現在の東京大学)の動物学教室に「珍蔵」されていることが記され、さらに、注釈として、「此標本に附せる付箋には田代安定氏採集、二月五日、八重山産?とあるのみなりしより今同氏が臺湾に在勤のことを知り得しかば菊池米太郎氏を介して其年及び採集地を問合せしに菊池氏の回答によりて前記の如く明確に知るを得たる次第なり」と書かれています。つまりミヤコショウビンは、田代安定という採集者が東京帝国大学の動物学教室に残したまま、30年以上忘れられていたものを、黒田長礼が発見して、ラベルに記入のなかった採集年や産地を改めて問いあわせて、新種記載したものなのです。
ミヤコショウビンの種としての地位については、疑いを差し挟む研究者もいます。太平洋諸島に生息するズアカショウビンが、ミヤコショウビンに最も近縁と考えられていますが、このズアカショウビンの、グアム島に生息している亜種(種のなかの地方型)とミヤコショウビンの形態的な違いはごくわずかなものなのです。
個体のグアム島からの迷行、飼育個体の逸出、ラベルのつけ間違え等を示唆する研究者もいます。ここで問題になるのは、採集から新種発表までのブランクです。これは国立科学博物館名誉研究員の森岡弘之さんの説ですが、採集者の田代安定は 年も経って問い合わせを受けたとき、「2月5日八重山?」という情報から、それは1887年で宮古島と答えたのでしょう。おそらくこの時、この鳥の記録が手帳などにあったわけではなく、たんに日付と場所からあてはめただけなのではないかと思われます(注)。
実は田代安定はズアカショウビンの生息地であるグアムを訪れています。熱帯植物学の研究者だった田代は1889(明治 22 )年8月から翌年の2月にかけて、太平洋諸島の人類学・植物学の調査に赴いており、グアム島には1890年1月29日から2月6日まで滞在しています。なんと、ミヤコショウビンの採集日とされる日付のまる3年後の2月5日は、グアムを離れる前日だったのです。ことによると、本業の植物学の調査が終わって、余技で鳥類を採集したり、おみやげとして標本をもらったりしたかもしれません。
残念ながら田代の書いたもので、このグアム訪問でどのような鳥に出会ったのかというような記述のあるものはまだ見つかっていません。グアム訪問についての彼の報告が印刷になっていますが、「鳥類ハ夥多ニシテ繁雑ニ堪ヘザレバ全ク説ヲ省キ…」(『東京地学協会報告』 巻7号)としているのみで一切、鳥の記述はないのです。今後、田代安定の、グアムでの資料が出てくるようなことがあればぜひ調べてみたいものです。
ミヤコショウビンの謎は深まるばかりですが、DNAを使ってズアカショウビンとミヤコショウビンがどの位違うかを調べるのは今後有望な研究ルートだろうと思います。現在では古い剥製標本からもDNAが採取できるようになりました。両者が同じであれば大発見ですし、両者が違って、たしかにミヤコショウビンが実在したと分かることも同じくらい魅惑的な大発見となるでしょう。
ミヤコショウビンの標本は、現在は山階鳥研に保管されています。1939(昭和14)年4月に東京帝国大学から移管された、約2,000点の標本の中に含まれていたと考えられます。
(広報室 平岡考)
【注】森岡弘之, 1989.ヤンバルクイナとミヤコショウビン. 日本の生物,3(1):19-24.
山階鳥研NEWS 2005年7月1日号(NO.196)を加筆修正