以下の文章は、朝日新聞(2004年2月23日付)「私の視点」に掲載されたものです。
渡り鳥調査 国の安保戦略と位置づけよ
山階鳥類研究所所長 山岸 哲(当時、現・名誉所長)
鳥インフルエンザの問題が連日かまびすしく報道され、ある種の社会不安さえ生じている。そうした中で野生の鳥類、特にカモ類などがウイルス運搬の犯人扱いされている。口のきけぬ彼らは、さぞ肩身の狭い思いをしているに違いない。明確にキャリアーと判明したわけではないのに。
いたずらに渡り鳥にその責任が押し付けられるのは耐え難い感がある。そして、本当に「犯人」であるのかどうかを明らかにするのが、国内唯一の鳥類の専門研究機関である、私どもの研究所の社会的責務でもあると自覚している。
幸い当研究所は渡り鳥の研究をする標識室をもっている。これまで約80年間に、延べ570種類、総計400万羽近い鳥を捕獲し、標識をつけて放鳥してきた。最近は年20万羽程度がこの対象となっている。
現在の事業は環境省の管轄の下、野生動物の保護保全をめざし、主に「渡りのコースの解明」に重点をおいて行われている。
先端機器の発達で、ツルやハクチョウ、猛禽(もうきん)など大型の渡り鳥には発信機を装着し、それを人工衛星で追跡することで、直接的にコースを解明することができるようになった。ところが、発信機の重量に耐えられない大多数の中・小型の鳥類については、捕獲して金属製のリングを装着して放鳥し、同じ鳥を再捕獲し、前回と今回の捕獲地点を結んでコースを明らかにする――という非効率な方法をとるしかない。
しかも、リングを装着した鳥を再び捕まえられる確立は平均1%ほど。残りの99%の情報は、これまではほとんど無駄になっているといっても過言ではないのである。この99%の鳥が持っている情報を有効にいかす道を模索しなければならない。中でも渡り鳥が運ぶ病原菌の病理学的検査は、いま最も求められているテーマといえよう。
実は当研究所はかつて、こうした調査を実施したことがある。63年から71年まで米軍の病理学研究所の依頼で、アジア数カ国の研究機関と協力し、渡り鳥に関するウイルスや医動物(主に鳥に寄生するダニ類、その他の外部寄生虫、および内部寄生虫)の分布を調べた記録が残っている。
この研究は打ち切られたが、今こそ、こうした取り組みを再開するように提案したい。現状で最も現実的と考えられるのは、当研究所が捕獲した鳥に標識をつける際、鳥から血液を採取し、国立感染症研究所などと協力して病原菌をモニターすることだ。鳥インフルエンザに限らず、米国で多数の死者を出している西ナイルウイルスも含め、渡り鳥が実際に病原菌を運ぶのかどうかは、国民の健康管理の面からも大変重要なことと思うからだ。
ところが、この考えは今のままではうまく運びそうにない。その理由のひとつに、前述したように標識事業は環境省だけの管轄になっており、病気の調査は事業目的に入れづらいことが挙げられる。予算措置も十分ではない。国境を越えて飛来する鳥の生態調査を行う際には、政府間の調整も重要な課題になってくる。
縦割り行政の悪弊を廃し、環境、厚生労働、農水、外務各省が「緊急総合プロジェクト」として、早急に取り組むべきではないだろうか。渡り鳥の調査は、環境保護の観点からのみとらえる問題ではなく、政府の国家安全保障戦略の一環として位置づけるべき問題なのである。