『生活と環境』2004年5月号 No.577「特集 検証・鳥インフルエンザ」より
野鳥と鳥インフルエンザ
山階鳥類研究所所長 山岸 哲(当時、現・名誉所長)
はじめに
わが国で79年ぶりに発生した「鳥インフルエンザ」は、山口県、大分県、京都府と所を変えて大きな騒動を引き起こしたが、幸い人への感染もなく、4月13日には京都府から「終息宣言」が出され、一応の終焉を迎えようとしている。しかし、京都では、野生のカラスが鳥インフルエンザで死亡したことから、「野鳥と私たちの付き合い方」が今大きく問われている。たとえば、山階鳥類研究所にも、「カラスが家に来ないようにするにはどうしたらいいのか」とか「ペットを飼っているが、このまま飼い続けていいのか」とか「ツバメに巣を作らせない手法を教えてくれ」などの相談電話が後を絶たない。これまで、人間が長い間培ってきた、渡り鳥をはじめ、野鳥たちと人との友好関係も今や崩壊の危機に面しているといえる。
今回の鳥インフルエンザの発症で、「カラスからウイルスが分離された」とか、「韓国でのウイルスと遺伝子がほぼ同じだった」という結果だけで、他の可能性をほとんど探らないまま、野鳥が病原体の運び屋であるに違いないと、まことしやかに流布され、極端な場合は渡り鳥を駆除せよとか、処分せよとまで言われるに及んでは、事は行きすぎだと言わざるを得ない。こうした状況のもとで、ものが言えない鳥の立場に立って、この問題を考えてみようと思う。
カラスは悪者か
ところで、カラスは「鳥インフルエンザ」の放火犯であるかのように忌み嫌われているが、そもそもカラスは養鶏所から「もらい火」をした被害者であるという認識に立つことがまず大切だと思う。つまり、ともすると野鳥は鶏舎へのウイルスの運び屋として、捉えられようとしているが、野鳥の立場からするならば、逆に鶏舎から野鳥への鳥インフルエンザの流出や感染をいかに効果的に阻止するかの手立てを考える必要があるだろう。そうしてやることが、私たちの野生動物への思いやりではないだろうか。
また、このことと関連して、鶏舎へウイルスを運び込んだ犯人として、渡り鳥など野鳥のみが槍玉に上がっているが、これはやや片よった見方だろう。交通機関の発達に伴い、人や物資が短時間で長距離の移動ができるようになった現在、人間による伝播の可能性について、今回どれほど調べられたのであろうか。はなはだ心もとないものがある。
マスコミの責任
「鳥インフルエンザ」がこれほどまでの社会問題になった原因の一つは、マスコミの報道のし方にあったと思われる。野生鳥類に専門でない一部の研究者から、安易に流されたあまり証拠のない憶測や類推が、どれほど社会を混乱に陥れたかということを研究者の側も謙虚に反省しなければならないだろう。また、マスコミの側も、いたずらに不安や恐怖心をあおるだけではなく、しっかりと裏を取った科学的情報を流してほしかったと思う。渡り鳥は確かに鳥インフルエンザ・ウイルスを保有することがある。図1は様々のグループの鳥類が、どの程度、鳥インフルエンザ・ウイルスを有しているのかを見たもので、水鳥や渉禽類は、普段からかなりウイルスを保有している。
しかしそうした場合のほとんどは低病原性のウイルスであり、そのままでは人には感染しない。図2に示すように、通常ではそうした低病原性のウイルスは水禽や渉禽類の中で廻っているだけで、それが突然変異を起こした場合だけ人の方向へ伝播する。長い歴史の中で、ウイルスは水鳥たちとじょうずに共生してきたのである。また、鳥インフルエンザ・ウイルスの潜伏期間は約一週間と考えられていて、人が鳥インフルエンザに感染する可能性があるのは、感染した鳥に濃密に接した場合に限られている。鳥インフルエンザ以外でも、野生の鳥たちは死亡するし、寿命が尽きて死ぬ場合が多い。死んでいる鳥を見つけても、パニックに陥ることなく、冷静に対処してほしいと思う。
渡り鳥から何がわかるか
さて、問題の渡り鳥の移動経路についてであるが、これは網を張って渡り鳥を捕らえ、その足に足輪をつけて放鳥して、もう一度捕まえるという、鳥類標識調査によって調べられている。たとえば、北米では、これまでに、こうしたデータが十分蓄積され、4つの大きなコースが見事に判明している。したがって、どの鳥はどの経路を通過するかが明確にわかる(図3)。これに対して、アジア地区では、わかっていないことが多く、特に韓国、中国、東南アジアでの標識調査が立ち遅れていることが、移動経路の研究に決定的な隘路となっている。
ところで、人畜共通感染症の病原体の拡散や感染経路については、まだまだ不明な点が多く、鳥型インフルエンザのようにウイルスそのものの性質もはっきりわかっていない状態である。このような状況のもとで、果たして本当に鳥が病原体を運んでいるのかどうか。鳥とヒトとの共通感染症の実態解明に向けての地道で息の長い調査研究が必要であろう。具体的には、渡り鳥の研究機関と感染症研究機関との共同研究による、野鳥を検体とした長期間継続した病原体保有のモニタリングを実施することがまず重要である。
この点、すでに述べたように、外国では各グループの鳥類が保有するウイルスの状況とか(図1)、季節ごとに、いつごろ最もウイルスを保有しているのかなどもわかっている(図4)。実は山階鳥類研究所でも、こうした調査を過去に実施したことがある。今から40年ぐらい前に、アメリカの病理学研究所の依頼で、アジア数カ国の研究機関と協力し、渡り鳥に関するウイルスや、鳥に寄生するダニ類、その他の寄生虫を調べたという記録が残っている。不幸にして、この研究は打ち切られてしまった。今こそ、こうした取り組みが再開されるべきであろう。
国家安全保障戦略としての渡り鳥調査
さらに、法律の面でも問題がある。家畜については「家畜伝染病予防法」で、その取り扱いがきちんと決められていて、「高病原性鳥インフルエンザ防疫マニュアル」や「動物展示施設における人と動物の共通感染症対策ガイドライン」などがすでに存在するのに、野生動物に対しての同様な法律やガイドラインがないということも忘れてはならない。
今回の「鳥インフルエンザ問題」は、事が多岐にわたるので、農水省、経済産業省、厚生労働省、文部科学省、外務省、環境省など、各省庁の壁を越えて、統合的に解決を図らなければならないことは言うまでもない。たとえば、渡り鳥調査は環境保護の面から従来環境省の主管になっているが、当然、厚生労働省の協力の元に病理学的研究が行われなくてはなるまい。
一方、ニワトリに関しては、鶏肉の問題であり農水省の管轄だ。今回のことに限って言うならば、「日韓での共同渡り鳥研究」は、おそらく外務省の管轄でもあろう。このように渡り鳥の調査は、環境省、厚生労働省、農水省、外務省が縦割りの悪弊を廃し、政府の「総合プロジェクト」として、国家安全保障戦略の一環として早急に対応するべき問題ではないだろうか。
最後に、環境省野生生物課は今回急遽「鳥インフルエンザ緊急対策室」を立ち上げた。この対策室が犯人逮捕後には、めでたく解散される警察の捜査本部のようであってはならない。ここまでの、鳥インフルエンザという大火事を目の前にして、ともかく消火しなければならないという、差し迫った目的をもった「緊急対策室」の役目が終了したとしても、今後はさらに、腰をすえて本当の意味での「鳥インフルエンザ」とは何なのかという基礎的なことを、「西ナイル・ウイルスの問題」も合わせて、じっくり調べる体制を整えることが必要ではないだろうか。「鳥インフルエンザ」が終息を迎えようとしている、これからこそが、環境省には正念場だとも言える。「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ということのないようにしたいものだ。
そして私たちが、これまで保ってきた、野鳥との友好関係を、「鳥インフルエンザ騒動」で失ってしまうことがないようにしたいものだ。