【第16回山階芳麿賞の受賞にあたって】
第16回山階芳麿賞を受賞された森岡弘之博士はご健康上の理由から、受賞記念講演を辞退されました。講演に代えて、受賞にあたっての文章を準備くださいました。この文章は小冊子として贈呈式の当日、ご来場の皆様に配布したものです。
第16回山階芳麿賞受賞
国立科学博物館名誉研究員 森岡弘之
このたび、はからずも日本鳥類学の分野では最高の権威がある山階芳麿賞を受賞することになり、選考委員の諸先生を始め、関係者や応援して下さった大勢の方々に厚く御礼申し上げます。
私は元来頑丈な方だが、昨年秋頃から体調が思わしくなくなり、今年の4月には両手のふるえと左脚の痛み(座骨神経痛)がひどくなった。手脚ともどうにか回復してきたが、腰痛と脚のしびれがまだある。それで受賞講演は省略させていただいた。以下の文章はその代わりで、一読していただければ幸甚である。なお、他の賞の受賞講演の記録を拝見すると「私の履歴書」風のものが多かったので、私もそれに見習った。
鳥とのかかわりの始まり
私が鳥とかかわりを持ち始めたのは、戦後疎開先から武蔵野市吉祥寺の祖父の家に戻ってからである。その吉祥寺の家は練馬区立野町との境目にあり、1947年頃は練馬区側は松林や茶畑や麦畑で石神井川まで人家が一軒もなく、ホオジロやヒバリがふんだんにいたし、善福寺池に出る道は両側の大木のために昼なお暗く、サンコウチョウが飛び交っていた。学校(石神井中学)は授業のないことが多く、毎日空気銃で鳥を撃ったり、善福寺池で泳いだりしていた。
そのうちに、どんな機縁だったか忘れたが、駐留米軍のRobert. B. W. Smith軍医大尉と知り合いとなり、鳥を撃つだけでなく、標本を採集するようになった。彼は小柄でハンサム、そして大変理知的な人で、来日当初は故黒田長久博士と採集行を共にしていたが(ヤマガラの亜種Parus varius sataensis KurodaのタイプはSmithの標本)、その後はいつも私が一緒で、我々はよく羽田飛行場に採集に行き、帰りには中曽根三四郎の所に立ち寄って剥製を依頼したり標本を購入したりした。中曽根は故松平頼孝氏の専属剥製師であったが、後に独立し、戦前は籾山徳太郎標本のほとんどを作った。戦後は蒲田駅の線路ぎわの小宅に住み、人体模型の製作販売で生計を立てていた。Smithさんは自分で標本を作れたが、しばしば中曽根に作らせ、そのうえ私の標本の分まで支払ってくれた。平和条約の約1年半後に帰国してからは住所がわからず、音信不通となったのが悔やまれる。歳は私より6−7歳上だったろう。
駐留米軍の軍人・軍属で鳥の標本採集にかかわった人は何人かいたが(Jack T. Moyer軍曹もそのひとり)、もう一人記録に残しておきたい人がChester Martin Fennellさんである。彼はオハイオ州出身の典型的なMidwest(中西部)の米人で、無口で大変きちょうめんな人だった。採った鳥は標本にするだけでなく、1羽1羽換羽、脂肪量、胃内容、寄生虫まで記録していた。1947年頃、PX勤務の軍属として来日し、初めは神戸近くに住み、小林桂助氏らと一緒に採集していたが、後に横浜に移り、約1年半ほど私と一緒に毎日曜日千葉県浦安でシギ・チドリ類などを採集した。私が京大大学院に入ったのと同時に韓国に転勤となり、私の留学中(1964年頃)に韓国で亡くなった。Fennellさんの標本は恐らく1000点以上あり、カリフォルニア州バークレイのMVZ(比較動物学博物館)に保存されていて、戦後のものだけに日韓鳥類のコレクションとしてきわめて価値が高い。また、彼には韓国と北海道大黒島の鳥類の報文がある(Condor 1951, 1953)。
大学・京大大学院・アメリカ留学
大学は東京教育大学(現筑波大)の動物学科に入学したが、この大学は教員養成大学だった。しかし、私は教師になる気はまったくなく、外交官試験でも受けようかと動物学科より法科や経済学科の授業を熱心に聴講していた。しかし、同級生と一緒に公務員試験を受けたところ全員落第した。それで外交官試験も無理だと悟り、一転して京都大学大学院動物研究科に入れてもらったのである。
山階鳥類研究所や日本鳥学会には高校生の頃(1948年頃)から出入りしていた。1960年代までは山階鳥研で鳥学会の例会が毎月開かれており、そこで故黒田長礼博士や故鷹司信輔博士をはじめ戦前から名のある鳥類学者と面談できたし、大学生の頃には学会の評議員会や各種委員会にオブザーバーや委員として参加させてもらっていた。黒田博士や鷹司博士はこうしたことに比較的寛容であったが、それは彼ら自身学習院中等部の学生の頃から東京動物学会や飯島魁教授の所に出入りしていた体験があったためであろう。
故池田真次郎博士と知り合いとなり、目黒の鳥獣調査室(農林省林業試験場)をしばしば訪れたのも1950年頃である。池田博士と一緒に御蔵島まで採集に行き、1か月島流しになったのもよい思い出だ。御蔵島は今でも不便だが、当時は半月に1回しか船が来ず、それもよく欠航した。
京大大学院では、動物学教室にあった標本をもとに数編の1例報告的短報を出し、(うち1編は海南島特産で稀少種のテッケイについてで、Ibis 1957に出版)、次に取り上げたのがキクイタダキがどの科に属するかの問題であった。
日本鳥類目録をはじめ多くの文献は、旧北区鳥類の分類の権威とされていたHartert博士の意見に従ってシジュウカラ科に分類していたが、ウグイス科説もあった。そこで頭骨を比較したところウグイス科であり、今日でもウグイス科に分類されている(独立の科とする人もいる)。
何故頭骨を比較したかと言うと、リンネ以来の伝統的分類学、そのなかでも特に属以上のレベルの系統類縁関係を研究する大分類学では、適応によって変わり易い適応形質(例えば嘴の形や羽色)とそうでない保守的または非適応形質(例えば内部形態)を区別し、保守的形質がよい分類形質とされて重視され、適応形質は捨てられてきた。長い経験から、頭骨や骨格など比較解剖学的形質は保守的形質とされていたのである。ただし、その当時の私は頭骨の単なる形態的比較に留まり、機能解剖学の視点はなかった。
キクイタダキの研究で力を得た私は、次にHartert博士のヒタキ科(ツグミ・ヒタキ・チメドリ・ウグイスなどの類を含む)を研究することにした。しかし、当時の日本では鳥の骨格標本はゼロの状態で、自分で採るしかなく、日本はもとより台湾まで採集して回ったが、研究できた属の数は限られていた。特に、どうしても研究したいという分類上問題のある鳥は中国奥地やヒマラヤやアフリカにいて手が出なかった。したがって、アメリカの博物館にある標本を研究したいと思った。
1960年頃、私にとって特別に重要と思われる研究が3つあった。Beecher(1953)のスズメ亜目の顎筋と系統関係の研究、Tordoff (1954)の頭骨に基づくアトリ科(広義)の分類の研究、Bock(1960)のスズメ目の頭骨の機能解剖学的研究である。これらのどれからも影響を受けたが、ある経緯で運よく米国イリノイ大学のWalter Joseph Bock教授のもとに留学できることになった(1962年9月)。
ケネディ大統領の暗殺は私がイリノイに着いた翌年である。だがアメリカは繁栄の絶頂にあり、治安もよく、日本人に対する反感も知らず、イリノイでの生活はとても楽しかった。約2年半後にBock先生がコロンビア大学に移られたと同時に私もニューヨークに移った。
Bock先生には筋肉解剖の手ほどきをしていただいたほか、羽状筋と平行筋の特性、骨格の機能における腱や靱帯の役割などさまざまの問題で助言してもらった。現生鳥類の顎筋は7個(インコ類では8個)で、少し練習すると容易に解剖できる。筋肉はふつう重なり合っているので、要は起点の側から他の筋肉を傷つけないようにして分けていく。起点・着点での骨へのつき方や角度、筋繊維の配列状態などはよく見る必要がある。後にBock先生と共著でミツスイ科の鳥の頭骨の比較解剖や頭骨キネシスの研究をした。
アメリカ留学は足掛け8年に及んで1969年1月に帰国し、1972年6月に国立科学博物館に就職した。科博時代は最近のことだし、紙面の都合で省略する。
分類と機能解剖学
私は現生鳥類(特にスズメ亜目)の比較解剖と分類を専門に研究してきた。分類学には属レベル以上の系統関係や分類を研究する大分類学と種レベル以下の類縁関係や分類、種分化などを研究する小分類学とがある。また、分類の手法として、分岐分類学(系統分類学ともいう)と伝統的分類学(進化分類学)とがあり、両者はそれぞれ一長一短がある。
私の分類学は伝統的分類学だが、留学先のBock先生が発展させた「機能解剖学的分類学」である。すでに述べたように、従来の伝統的分類学では適応形質と保守的(非適応)形質を区別してきたが、その仕分けにおいて主観的ないし恣意的であると批判されてきた。機能解剖学的分類学では、生物分類の唯一の基準を相同(同一祖先による形態などの類似)とし、形質の機能(生物体としての働き)と適応を研究する伝統的分類学のなかでは比較的新しい手法である。
例えば、頭骨や骨格は一般的には保守的形質と考えられているが、如何に保守的であっても生体から取り出された骨は「物」にすぎない。骨にはさまざまな筋肉が付着し、それらの収縮によって機能する(もちろん骨格が機能するためには神経も血液もホルモンも必要だが、一義的には筋肉が骨を動かす)。したがって、骨の形、突起、関節丘、窩(くぼみ)や溝、隆起線など骨の形態的特徴は筋肉と併せて研究することによって理解できる。Bock博士との共同研究によるミツスイ科の頭部の機能解剖学的研究はその一例であろう。
さらに、機能解剖学的分類学は、進化の方向性から分類群の系統類縁関係をさぐるのに有効である。その基盤のひとつは進化の多重経路(multiple pathway of evolution)の概念だ。これは、適応と形質の特徴(feature)は常に1対1で対応しているのではなく、非常に多くの場合、同一の適応に対する形態的(形態とは限らないが)答えがいくつかあるということである。例えば、三前趾足も対趾足も変対趾足も物を摑むために発達した足であり、木にとまるための適応である。したがって、樹上生活を続けている限り、例えば対趾足のグループから三前趾足の鳥が進化することは考え難い。何故なら、木にとまるという適応ではこれら三種の足に優劣がないからである。ただし、適応(生活)が変われば、形質も進化するのは言うまでもない。
また、対趾足はカッコウ目・インコ目・キツツキ目の特徴であるが、これらの分類群で相同形質であるとか派生(子孫)形質であるとか言うことはできない。こうした特徴は多くの場合平行進化の結果である。事実、詳細な比較形態学的・機能解剖学的研究では、キツツキ類の対趾足はキツツキ目独自のものだ。形質は研究するが、形質の機能も適応も研究しない分岐分類学は時々大きな誤りを犯す。例えば、ある分岐分類学者はアビ類とカイツブリ類を姉妹群としたが、これは誤りである。
分岐分類学にはいくつかの長所があるが(例えば分岐図や形質の量的解析)、すべての進化は分岐によるとするなど、不合理な仮定も少なくない。最大の欠点は、上記のように相同と相似やホモプラシイ(非相同同形)を区別しえないことである。分岐分類学は魚類や昆虫類の一部では広く受け入れられているが、鳥類分類学者の間ではきわめて評判が悪い。その理由のひとつは、鳥類は飛ぶことに高度に適応し、数回の大規模な適応放散で進化したが、他の脊椎動物群と比べると形態的にきわめて一様である。このような動物群では相似やホモプラシイによる形態的類似が非常に多いであろう。なお、分子分類学は形質が形態ではなくDNA分子であるが、分類学的手法としては基本的には分岐分類学である。
Bock博士によると、分類形質も分類(系統関係)もすべて仮説(hypothesis)で、ただ信頼度(confidence)の高いものと低いものとがあるにすぎない。信頼度の高い形質仮説を多く使うほど系統仮説の信頼度も高まる(この点では伝統的分類も分岐分類も分子分類も同じである)。機能解剖学的研究はうまく使えば信頼度の高い形質を得ることが可能である。
例えば、私の研究したアマツバメ類とツバメ類は飛びながら小動物を捕食するのに高度に適応した動物群である。したがって、頭骨も外部形態もよく似ている。しかし、アマツバメとツバメの顎筋は違っており、ツバメ類の顎筋はヒタキ類のものに近い。同じような採食法でありながら、頭骨−顎筋系の仕組みは違う。このことは、ツバメ類がスズメ目の鳥であり、アマツバメ類とは別個に進化したという従来の学説(分類仮説)を支持するだけでなく、その信頼度を高めたことになろう。
小分類学
私は小分類学の研究にもかかわったが、それは主として「日本鳥類目録」の編纂と日本固有種・準固有種の分類学的研究を通じてである。日本鳥類目録は日本鳥学会の出版物で、初版(1912)以来、6版(2000)まで版を重ねた。私は4版(1958)以来編集にたずさわり、特に5版(1974)と6版ではスズメ目の鳥類の分類をひとりで担当した(非スズメ目は黒田長久博士)。目録の作成などの仕事は、一般的には科学的価値が低いと考えられがちである。しかし、識別できる種を整理し正しい学名を与える作業は、分類学はもとより、すべての生物学の研究に不可欠の仕事である。
一方、私が日本固有種(アカコッコ、オガサワラマシコ、メグロ、ノグチゲラなど)・準固有種(オオセッカ、アカヒゲ、カラスバトなど)に興味を持ったのは、彼らの系統関係が日本鳥類相の起源の解明に不可欠だからである。特にアカコッコの近縁種についてはミャンマー・雲南高地に分布するTurdus dissimilisおよびボルネオ島キナバル山のT. seebohmiであるという山階説(山階1942, Kawaji et al. 1989)と日本本土のアカハラであるという藤村説(藤村1948)とが対立していたが、私は藤村説の方であった。後のDNAの研究でも藤村説が支持された、と聞いている。なお、T. dissmilisはアカハラやアカコッコではなくクロツグミの近縁種と思う。オオセッカがMegalurus属(タイプは東南アジアのM. palustris)でないことは明白で、私はセンニュウ属に分類した。その他いくつかの研究でも私の仮説とDNAの研究結果は一致しているようである。しかし、メグロだけはまだ決着がついていないが、私はメジロではなくチメドリ類だと確信している。また、ミヤコショウビンは、誤って宮古島産とされたグアム島のズアカショウビンだと考えている。
最後に一言、私は鳥類の分類学、形態学の分野でさまざまな研究を行ってきたが、ある程度の成果を得ながら論文として公表していない問題がいくつもある。完全なものを求めると、論文はなかなかできない。若い人は90%の自信があれば論文にすべきだと思う。ただし、如何にもあいつのやりそうな仕事だ、という個性が欲しい。
以上を続けるためにたくさんの方にお世話になり、ご協力いただきました。ありがとうございました。
追記
本文の初めのほうで、スミス氏とフェネール氏についてやや長めに述べたのは、この2人を知る人がほとんどいないだろうからである。スミス氏のコレクションがどれだけで、現在どこにあるのか、私も知らない。多分数百点以下であろう。彼は画才があり、オージュボンに匹敵する日本鳥類の大型原色図譜を作りたいと思っていて、これは結局実現しなかったが、標本はその資料だった。したがって、同じ種の同じ羽色の標本をたくさん集めていなかったし、迷鳥にもさほど興味がなかったが(彼が羽田で1950年9月に採った日本で何番目かのコバシチドリは私がもらっている)、主なものはだいたいそろえていた。また、彼の標本はみな頭が横向きで、中曽根に作らせる時も自分のものは特注だった。しかし、中曽根に作らせたのは、多分に、彼の生計を助けてやろうとしたのだと思う。
中曽根は、折居彪二郎氏と並んで、日本ではいちばん多くの研究用剥製(仮剥製)を作り、その点で日本鳥類学に貢献している。しかし、彼がどこで、何時亡くなったのか、判然としない。昨年(2009年)、東京で亡くなったと聞いたが、これは明らかに人違いである(彼はもう一代前の人である)。
(山階鳥研NEWS 2010年11月1日号及び2011年1月1日号より)
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