2021年10月6日更新
今年のNHK大河ドラマ、「軍師官兵衛」は豊臣秀吉の天下となり、後半に入りいよいよ佳境です。秀吉の軍師として活躍した戦国武将、黒田官兵衛を俳優の岡田准一さんが演じています。近代日本鳥類学の草創期から現代への発展に大きな役割を果たした黒田長禮(ながみち)・長久(ながひさ)父子がこの官兵衛の末裔であることをご存知でしょうか。山階鳥研にも深い関係のあるこの二人の研究者とそれに至る黒田家の伝統についてご紹介します。(文中敬称略、まとめ・平岡 考)
(山階鳥研ニュース 2014年9月号 より)
黒田官兵衛(孝高(よしたか)、出家後は如水(じょすい))は、ドラマでもご覧のように、もともと姫路の武将でしたが、天正15(1587)年、秀吉によって豊後国(大分県)中津藩に封ぜられ、その後関ヶ原合戦の戦功によって子の長政が徳川家康から筑前国(福岡県)52万石を与えられます。長政が慶長5(1600)年に福岡に入って以来、黒田家は福岡のお殿様になりました。その黒田家では幕末になると、官兵衛から11代目にあたる斉清(なりきよ)、12代目の長溥(ながひろ)と本草学の研究で名を挙げる殿様が輩出します。本草学とは薬用になる動植物を調べる学問で、現代の言葉では博物学に近く、江戸時代に盛んになり、大名の間にも流行しました。こうした本草学愛好の家柄に生まれた明治生まれの15代目、長禮(ながみち)は東京帝国大学動物学科の飯島魁(いいじま・いさお)教授に学び、日本で初めて鳥の研究で学位を取得し、近代日本鳥類学草創期に大きな貢献をします。16代目の長久(ながひさ)も日本を代表する鳥類学者として戦後の日本鳥類学の中心人物として活躍しました。
江戸時代の「愛物産家(=博物愛好家)番付」では、東の大関の富山藩主前田利保に対し、西の大関に黒田斉清の名が挙がっているそうです。「本草啓蒙補遺(ほんぞうけいもうほい)」、「鵞経」(=ガチョウの研究書)、「鴨経」(=カモの研究書)などの著書があります。また長崎のオランダ商館付き医師シーボルトと面会し、博物学にかんする問答を行いました。官兵衛から数えて11代目です。
(福岡市博物館所蔵)
官兵衛から数えて12代目の黒田長溥は、こちらも西洋の科学技術の導入に熱心だった薩摩の島津重豪(しげひで)の子で、黒田家の養子となりました。やはりシーボルトと親交があり、解剖学の講義を受けています。
黒田家はこの後も、長知(ながとも)、長成(ながしげ)、長禮(ながみち)と代々、博物愛好、鳥類研究の家系が続きます。
(福岡市博物館所蔵)
黒田長禮は、鳥類学、哺乳類学、魚類学にまたがって幅広く業績を挙げました。分類学を専門とし、特にガン・カモ類研究の第一人者でした。鳥類ではカンムリツクシガモ、ミヤコショウビンを新種として命名記載しています。一昨年100周年を迎えた日本鳥学会の、創立時の発起人に加わったほか、日本哺乳類学会の発起人、日本鳥学会会頭、日本生物地理学会会長、日本哺乳類学会会頭などを歴任しました。官兵衛から15代目に当たります。
左の写真で黒田長禮が手元に置いている標本は、彼が新種として命名記載したカンムリツクシガモの標本です。世界に3点しか標本が存在せず、絶滅した可能性が高いと考えられています。
黒田長禮所蔵の標本コレクションはほとんどが戦災で焼失しましたが、別に保管されて焼失を免れたカンムリツクシガモを含むわずかな数の貴重標本は、長禮の没後、山階鳥研に寄贈されて現在に至っています。山階鳥研の創立者山階芳麿は、黒田長禮より11歳年下で、「私は黒田長禮博士の後輩として常に色々とご指導をいただいた」と記しています。
カンムリツクシガモについて詳しく >>
黒田長久は鳥類の分類学、形態学、解剖学、生態学など幅広い分野で多くの研究業績を挙げました。
創立者山階芳麿のあとをついで、山階鳥研所長をつとめたほか、日本鳥学会会頭、日本生物地理学会会長、日本野鳥の会会長、我孫子市鳥の博物館館長などを歴任しています。官兵衛から16代目に当たります。
(2002年7月撮影)
黒田長禮・長久父子が、日本鳥類学の発展に貢献した功績を記念して、日本鳥学会では、2010年から黒田賞を創設しました。鳥類学で優れた業績を挙げ、これからの日本の鳥類学を担う鳥学会の若手会員に毎年贈られるもので、これまでに4名の研究者が受賞しています。
右の写真は2013年度受賞の三上修・岩手医科大学講師(写真提供:三上修)
参考にした主な文献:●科学朝日(編)「殿様生物学の系譜」(1991, 朝日選書)●木原均他(監修)「近代日本生物学者小伝」(1988, 平河出版社)●黒田長久「愛鳥譜」(2002, 世界文化社)●「日本鳥学会100年の歴史」日本鳥学会誌61巻, 日本鳥学会100周年記念特別号
※ 黒田長禮の没年を1976年としておりましたが、ご指摘を受け再調査したところ、1978年と判明しました。お詫びして訂正いたします。