2022年11月17日掲載
博物画家 小林重三は、大正時代から戦後にかけて、鳥類を主とした生物の図を描いた人で、その作品は、山階鳥研の創立者 山階芳麿の著作を含め、同時代の鳥類学、生物学や関連分野のさまざまな出版物に掲載されています。山階鳥研の客員研究員として小林について調査している園部浩一郎さんに小林重三の事績と自身の調査について執筆いただきました。
山階鳥研 客員研究員 園部浩一郎
小林重三(しげかず 1887―1975)は、鳥類を主に描いた博物画家だ。筆者は日本野鳥の会の会誌「野鳥」を編集していた約30年前、重三が残したスケッチを目にする機会があり、今にも動き出しそうな鳥たちの姿に魅せられた。以来、重三が描く博物画の作品調査を多くの方のご協力を得て少しずつ続けてきた。
これまでに重三の作品が掲載された図鑑、論文、教科書、掛図、百科事典、児童書など多様な出版物を約八百点確認した。重三が描いた作品をそれと知らずに目にしたことがある人は多いと思われる一方、その名は広く知られているとは言えない。すぐれたカラー写真がなかった時代、鳥学に名を残す学者からの依頼を受け、細部まで表現した鳥類画を描き続け、1951年その功労に対して日本鳥学会から表彰状が贈られた。日本鳥学会創設の頃から活躍を続けた重三は、日本の鳥学と共に歩んだ画家と言ってよいだろう。
子供の頃から絵を描くことを好んだ重三は20歳前後、京都の関西美術院で浅井忠に絵を学び、春鳥会・日本水彩画会研究所を主宰した大下藤次郎の出張講習会で水彩画を学んだ。それ以外は独学で絵に取り組み、風景画家をめざしていた。
若くして結婚した重三は、24歳の時大下藤次郎から声をかけられ、生活の糧を得るため滋賀から上京。小石川に居を構える鳥類学者・松平頼孝(よりなり)のおかかえ絵師となる。重三は鳥のことを初歩から勉強しながら鳥類画など博物画を描き始める。
10年が経過する頃、松平家は破産寸前となり職を失う。子供4人をかかえて妻に先立たれるなど苦労が絶えなかったが、本人の努力や才能はもとより、鳥類学者・黒田長禮(ながみち)、山階芳麿、鷹司信輔(のぶすけ)や蜂須賀正氏(まさうじ)らから多くの絵の依頼があり、内田清之助が多方面の絵の仕事を紹介してくれたこともあって、鳥類・博物画の第一人者となってゆく。昭和の初めから戦前にかけて多くの代表作を残した。
戦後は、東京・赤羽から長男が住む湘南の辻堂に移り住み、戦前と同様依頼に応じて野鳥などの博物画を多く描いた。一方、湘南を中心とした風景画に取り組む時間が多くなり、複数の絵画展に出品し、油彩の風景画の個展を銀座で開くなどした。1975年、88歳で死去した。
重三が描く鳥や生き物はふんわりと温かく、活き活きとした姿がとても魅力的だ。科学的な側面に加え、背景が描かれている画に風景画家としてのこだわりが感じられることも、特徴の一つであろう。
重三の作品は山階鳥類研究所にも多く所蔵されている。山階芳麿による「日本の鳥類と其の生態(全2巻)」に掲載された鳥類の挿図は、重三が単色で濃淡を絶妙に表現した画を元絵として、彫り師が緻密な点と線で表現した木口(こぐち)木版画だ。未刊に終わった第3巻用のものを含め、原画と木口木版の版木が数多く残されている。内田清之助の「新編日本鳥類図説」の原画数十点、干潟にキョウジョシギの小群がいる風景が描かれた油彩のタブローほか、貴重な作品が含まれる。
1994年平塚市博物館で、2015年町田市立博物館で重三の作品展が開催され、筆者も企画に関わった。そして今年は、これまで重三作品を調査してきた内容をいくつかまとめることができた年となった。金沢ふるさと偉人館での企画展「中西悟堂 まぼろしの野鳥図鑑」(4~8月)の企画に関わり、「山階鳥類学雑誌」に論文「山階芳麿らの日記類に記述された博物画家・小林重三」をまとめる機会に恵まれ、図録「幻の野鳥図鑑『原色野鳥ガイド』」を編集・分担執筆した。
今後も重三の残した作品を追い、また重三の描いた博物画を多くの人に知ってもらいたいと考えている。
(文・写真 そのべ・こういちろう)