大陸に沿って南北へ弓状に延びる日本列島は、亜寒帯から亜熱帯に至る五百余種の鳥類が住み、そして行き交う多彩な鳥の国である。その日本に生まれ、80年近くを鳥と親しみ、鳥類の研究一筋に過ごしてきた。研究者として、いまだ「日暮れて道遠し」の感はなきにしもあらずだが、日本の鳥類研究の歴史の一端を述べるつもりで、この履歴書を書こうと思っている。折しも5月10日からはバードウイーク。この履歴書が鳥への関心の助けともなれば、これに過ぎたる喜びはない。
私は若い時から遺伝学を学び、その観点から鳥類の研究を行ってきた。今になって気づいたことであるが、鳥に限らず、人間も含めたすべての生物にとって、遺伝というのは羅針盤(らしんばん)のようなものである。与えられた環境の中で、どのように行動し、生きていくのかを決める際、遺伝という羅針盤の針におのずと従うのである。80年近い人生を振り返って見る時、私自身もその例外ではあり得ない。祖父や父の影響というものが、いつも私の羅針盤となってきたのであった。
私のやってきたことは、しばしば時代よりも10年先立っていた。同じことを10年ぐらい後にやればスラスラいくのである。祖父や父の経歴はやはりこれにあてはまる。また、がんこで思ったことはやり通すところなども、祖父や父ゆずりであるようだ。そんなところから、まず祖父の話から始めよう。
祖父・山階宮晃(あきら)親王は文化14年(1817)に伏見宮第19代邦家親王の第一王子として生まれた。文政7年、7歳の時に当時の皇族の常として落飾して山科の勧修寺に入ったのだが、天保13年問題を起こして閉門となり、東寺の観智院に軟禁状態となった。こうしたことがきっかけとなり、勤王の志士たちと接触の機会が生まれたのである。英明の聞こえ高かった祖父のもとには、やがて勤王の志士の出入りが激しくなった。元治元年(1864)に三条木屋町通りで刺客に襲われて死んだ佐久間象山も、その日、祖父を訪れて歓談した帰途であった。
その年、47歳だった祖父は勅命によって復飾し、住んでいた土地の名をとり、山階宮となって、公然と活動を始め、孝明天皇を助けて幕末の多事多難な時代に活躍した。明治維新となってからも、明治天皇の信任はあつく、外国事務総督という、外務大臣に当たる役を務めた。伊藤博文や大隈重信ら、明治の元勲と言われた人々はその下で働いていたという。
だが祖父は我が道を行く人であった。明治になってから、皇族はことごとく軍人になったのであるが、祖父だけは辞退をしてどうしても軍人にならなかった。祖父の性格を知る明治天皇お許しもあったのであろう、とうとう軍人にはならないただ一人の皇族として通してしまった。文官として過ごした祖父一人のために、皇族用の大礼服が制定されている。今も東京・明治神宮外苑の明治天皇記念絵画館にある憲法発布の絵の中に、明治天皇の側に軍服で居並ぶ諸皇族の中にただ一人、白ズボンの皇族用大礼服に威儀を正した白いひげの祖父の姿がある。
外国事務総督のあと治部卿を務めて第一線を退いたが、今後はどうしても京都に住みたいと言い出した。当時、皇族はすべて東京に住むことになっていたのだが、明治天皇に強くお願いした結果、とうとう「やむを得ず」ということで許され、当時困窮の極にあった茶道の宗家たちを招いて茶会を開き、これを救いながら、晩年を京都で過ごした。これも皇族の中では唯一の例外であった。
このように祖父は一度言い出したことはガンとして変えようとしなかった人である。振り返ってみると、私にもこうしたところがある。後年、明治天皇の勅命によって入った陸軍を退役して鳥の研究に専念するようになった時も、また戦後、鳥類保護のために駆け回った時も、持ち前のがんこさが頭を持ち上げたのであろうが、これも祖父という羅針盤が指図していたところなのかも知れない。
(日本経済新聞 1979年4月26日)