私にとって父・菊麿王の影響は祖父よりもさらに大きい。父は常に時代を先取りした人であった。特にサイエンスへの関心は深く、それが知らず知らずのうちに私の中にもしみ込んでいたのである。
父は明治6年に祖父・晃親王の第一王子として生まれた。16歳の時にドイツに留学、キールの海軍兵学校に入学し、卒業後、海軍少尉に任官したが、引き続いて海軍大学に入り、卒業後の明治27年日清戦争のすぐ前に帰国している。
父が留学していたキールは軍港であったが、すぐ近くにウィルヘルムスハーフェンという商港があった。ここには海洋気象台があり、休みの時に訪れた父は気象台長にかわいがられて、しばしば通ううちに気象観測の手ほどきを受け、これが一生の興味となった。
帰国後すぐに日本の高層気象の観測に手を染めた。そして明治34年夏には佐藤順一氏を富士山へ試験登山させた。富士山頂に観測所を開こうとしたのだが、困難なことがわかったので、富士山測候所は野中到氏に任せてこれを支援し、同じ明治34年に筑波山頂に、日本では初めての高層気象観測所を設け佐藤氏を所長とした。
しかし、富士山測候所建設の初志は捨て難く、明治40年1月、山頂に小屋を作って佐藤氏を住まわせ、観測する計画をたてたが、その実現を見ずにこの世を去ったのは残念なことであったろう。父が亡くなった時に日本全国の測候所長が一団となってその墓前に参拝した事実は、父の気象観測が当時の気象観測に従事していた人々の心に大きな支えになっていたことを示していると言えよう。
また地震学も、日本ではまだ発展していない学問であったが、父は持ち帰った地震計を自宅と鎌倉の別荘に据えつけて地震観測を行っていた。当時の地震計の用紙は、ランプにかざしてススで真っ黒にしたもので、円筒に巻いたこの用紙の上を針がゆれて白い線を描くのであった。艦隊勤務の多い父は私たちと一緒に生活する時間が少なかったが、父が帰った時に、この用紙をランプのススで真っ黒にいぶすのが私と兄の楽しみでもあった。
父は動物も好きだった。明治28年に、軍艦武蔵で北海道から千島を初めて巡航し、千島北端のシュムシュ島まで行った。その帰途、北海道で生きたヒグマの子、ワシ、キツネなどをもらってきた。私が物心ついたのは、それからほぼ10年後になるが、これらの動物のうち、上野動物園に寄贈したヒグマだけがまだ生き残っていた。
標本作りも好きで、庭に来る鳥を小型の銃で撃っては標本に作らせていた。父が銃を撃つと、兄と私が、飛び出していき、落ちた鳥を拾ってきてその鳥の名を父からおそわった。庭には数多くの禽舎(きんしゃ)があって、いろいろな鳥も飼っていた。昆虫採集は私たち子供の役目であった。
動物や鳥についての本も沢山あった。父がドイツから持ち帰ったものや、昔の絵図などで、小さい時からいつもそれらを見て暮らしていた。よく、鳥を研究しだしたきっかけは? と尋ねられることがあるが、こうして子供の時からいつも鳥とともにあり、サイエンスの習慣を身につけていたので、いつからということなく、全く自然に鳥の勉強を始めていたのである。その環境を作ってくれたのが父であり、私の現在あるのも、全く父の影響と言ってよいであろう。
母・範子も鳥が好きだったようだ。母は藤原時代から続く五摂家の一つ九条家30代目道孝の二女であり、妹は大正天皇の節子(さだこ)皇后であった。母はなかなかのハイカラで、若いころからバイオリンを弾き、ダンスを楽しんでいたと言う。そういうところが洋行帰りの父と合ったのだろう。明治28年9月に結婚している。
母は私が生まれた翌年の明治34年に妹を生むと産後の肥立ちが悪くてすぐに亡くなった。私は顔も覚えていないが、新婚当時の父が写した写真の中に、バイオリンを弾く母の姿があり、これが母のおもかげをしのぶよすがとなっている。
やはり九条家の出であった明治天皇の母・英照皇太后も鳥が好きで、たくさんの鳥をかごに飼っておられたが、明治30年1月に亡くなられた際、母がそれをそっくりいただいて飼っていたと言う。後に私もその立派なかごで鳥を飼ったものである。
(日本経済新聞 1979年4月27日)