山階芳麿 私の履歴書

 

第4回 幼年時代

写真機がお気に入り 誕生祝いに、ねだって鳥の標本

私が生まれるとすぐに乳母が二人ついた。一人は乳の必要な乳児の間だけであったが、もう一人は生活すべての世話をみる係であった。母も面倒を見てくれるのであるが、宮家としての公式の行事への出席が多かったため、世話係が母親代わりとなった。この人は岡井豊(とよ)と言い、茨城県土浦の城主土屋氏の家臣の娘ということだった。

父も艦隊勤務であったため、留守がちだった。だが、新しもの好きであった父が、ドイツから帰国した際に持ち帰ったものが私たち兄弟をあきさせなかった。写真機もその一つで、まだ幼稚園の頃から見よう見まねでいじり回していた。家には暗室や写場も作ってあったので、父の後については入りこんでいたが、これは研究生活を始めてから大変役に立ち、75年を経た今でも写真を趣味としている。この間のネガはおよそ2万枚近く戦災を受けずに残った。整理し終っていないが、貴重なものも多いことと思う。

また蓄音機もドイツみやげであった。ロウ管式のもので、こわれやすいが、音を再生するだけでなく、テープレコーダーのように声を吹き込むことができる。よく唱歌などを吹き込んでは聞いたものである。さらに庭の池や泉水でカエルをとったり、林でセミをとったり、チョウやトンボを追ったりして飽くことはなかった。

父は家に帰るとよく庭で小鳥を撃った。撃った小鳥は標本にして保存した。またこのころ庭にきたのは水鳥ではバン、ミゾゴイ、カワセミなどで、大木にはキツツキなども来た。今なら奥多摩か丹沢にまで行かなければ見られない鳥ばかりである。もっとも、このころの東京は森の都と呼ばれ、ちょっと高い所に登って見渡せば、家などはあまりなく一面の森だった。

また、父は兄と私をいろいろなところに連れていってくれた。隅田川の一銭蒸気など今も思い出新たである。東大の地震学教室や動物学教室にも行ったことがあるし、山手線が初めて品川と池袋の間に通った時も、私たちを連れていってくれた。まだ蒸気機関車がひく小さな客車だった。新宿は牧場の中、渋谷駅あたりは一面の畑だったのを覚えている。

父が横須賀に入港した時、東京からは遠いので、鎌倉の海岸に別荘を持ち、そこから横須賀に通っていた。そして私たちも冬はよくこの別荘で過ごした。当時、鎌倉と言えば、新橋駅を朝のうす暗いうちにたって、汽車で昼近くに着き、やっとその日のうちに日帰りできるというところだった。鎌倉駅も小さな駅だった。駅から海岸までの間は一面のいも畑で、海岸近くの家が見えており、いも畑の中を真っすぐ家に向かったものである。夏などは海亀が上がって卵を産んだこともあった。

この間、明治38年に5歳で学習院の幼稚園に入った。幼稚園は赤坂の女子学習院の中にあった。2年目になると、私より1歳年下である今の天皇陛下が時々遊びに来られ、また月に1度くらいは私の方が高輪にあった皇孫御殿に行って遊びのお相手をした。鬼ごっこ、陣とりといった遊戯が主であったが、時には赤坂の東宮御所に行っては、御所の庭のいも畑で、いも掘りなどもした。陛下とは長いおつき合いで、その後はともに生物学を学ぶようになったため、今でも昔話を懐かしむことがある。

ただ、幼稚園時代に、兄が百日ゼキや猩紅(しょうこう)熱をもらってくると、すぐ私も移ってしまう。それまで、ほとんど屋敷の外にも出ず、全くの温室育ちだったのが外気に触れたようなもので、これ以後、始終、風邪や扁桃腺(へんとうせん)肥大で熱を出すようになってしまった。

万事にヨーロッパ式であった私の家では、誕生日には両親からバースデー・プレゼントに菓子をもらう習慣であった。ところが私は6歳の誕生日に「どうしても鳥の標本が欲しい」とお願いして、とうとうガラス箱に入った剥製(はくせい)の一つがいのオシドリをプレゼントしてもらった。この私のコレクション第一号のオシドリは今でも山階鳥類研究所に保存してある。これ以後、私の誕生日には必ず鳥の標本をプレゼントしてもらうことになった。

(日本経済新聞 1979年4月29日)

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