山階芳麿 私の履歴書

 

第5回 学習院初等科

休日にはよく映画館へ 2年生の春、急病で父を失う

明治40年に学習院初等科に入学した。四谷の、現在も初等科がある場所だ。通学には甲武線の電車を利用した。甲武線は今の中央線で、飯田町が始発駅で、新宿を経て甲府まで延びており、新宿までは1両だけの電車、そこから先は汽車が走っていた。私は富士見町の家から牛込駅まで歩き、四谷までこの電車に乗ったのだが、当時はラッシュアワーなどなく、朝の登校の折もガラガラの電車で楽にすわって行けた。帰りは、午後3時ごろに1本だけ汽車が飯田町駅まで乗り入れており、時にはわざわざ時間を待ち合わせてその汽車に乗ったこともある。

電車と言えば、当時としては全く珍しい電車の衝突事故に行きあったことがある。このころ、学習院では夏の水泳場は江の島だった。中等科になると、片瀬の松林でキャンプすることになっていたが、初等科の生徒は木造平屋の寄宿舎に泊まった。しかし私は鎌倉に別荘があったので、毎日鎌倉から江ノ電で片瀬海岸まで通っていた。そうしたある日、片瀬へ行く途中、七里が浜の行合橋の曲がり角で、乗っていた電車が鎌倉行きの電車と正面衝突した。

私は一番前の席にすわっていたのだが、衝突した衝撃で、電車の正面のガラスはみな前の方に吹き飛び、私はかすり傷一つ負わなかった。かえって後方の座席にすわっていた人たちが窓ガラスの破片を浴びてたくさんケガをした。あとで江ノ電の社長たちがあやまりに来ていたが、元気一杯の私の姿を見て、向こうの方がホッとしているようだった。

当時の学習院の院長は乃木希典将軍であった。乃木院長は、ふだんは目白にいて、時々、四谷に来て5、6年生に木剣体操をご自分で教えていた。木剣体操というのは、院長が考案したものらしく、木剣を振り回して体操するもので、生徒にとってはいささか持て余し気味の体操だった。

乃木院長が突然私の家を訪れたのは、明治45年の9月の7、8日ごろであったろうか。明治天皇が7月30日に亡くなり、御大葬が行われる数日前であった。中等科に行っていた兄と初等科6年生だった私に話をなさるとともに、山鹿素行の「中朝事実」というむずかしい漢文の本を手渡して帰られた。「中朝事実」というのは、神道と皇道とを論じた書で、寛文9年(1669)に成ったものだが、当時の私には何の本かわからなかった。

乃木院長が静子夫人とともに明治天皇を追って自刃したのは御大葬当日の午後8時であった。私たちは全くそれと気づかなかったが、ひそかにお別れにおいでになったのだろう。この乃木院長の形見の本は、戦災で失ってしまったが、大変惜しいことをしたと思っている。

明治天皇、乃木院長が亡くなる4年前の明治41年4月28日父が亡くなった。インフルエンザがこじれ急性肺炎となったものである36歳であった。軍艦「八雲」の副長から、この年の初めに海軍大学校の選科学生となったばかりであった。父が死んだ日は、他の宮家の慶事の日と重なったため、公式記録には4月28日危篤、5月2日薨去(こうきょ)としてある。

このころは皇族といっても、ふだんは大変自由であった。夕方などはよく三番町の縁日をぶらついたし、休日には、しじゅう映画を見に行っていた。チャプリンの全盛時代で、神田の錦輝館などに通ったものである。浅草にもよく通った。花屋敷や、珍しい動物や変種の動物の標本を集めた珍世界などを見物したり、映画を見たりした。神田の錦輝館はいす席だったが、そのころの浅草ではムシロが敷いてあるだけの映画館が多く、そこにあぐらをかいてすわり、いろいろな人とひざを接して見たものである。こうした時も、お付きが一人つくだけであった。明治の末から大正時代になってからも皇孫殿下であった今の天皇陛下も、夏休みには熱海で海水浴をする時には一般の人にまじって泳がれた。皇室と国民の間がものものしくなったのは昭和になってからである。

私の鳥への関心は、大きくなるにしたがって深まり、高学年になってからは冬休みに1週間も毎日続けて上野動物園に通ったこともある。大正4年から日本鳥学会の雑誌「鳥」が出版されたが、それまでは日本動物学会の動物学雑誌をずっと講読していた。鳥の研究も当時はまだ分布や習性などが中心であったため、興味深く読んだのだが、それにしても、子供向けの本ではなかったようだ。日本鳥学会の「鳥」も近く108号を迎えることになっている。

初等科を卒業したのは大正2年3月である。入学以来毎年、優等賞に当たる銀メダルを華族会館から授けられていた。

(日本経済新聞 1979年4月30日)

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