山階芳麿 私の履歴書

 

第6回 中等科・幼年学校

動物好き 募るばかり 深い感銘受けた区隊長の言葉

大正2年4月に学習院中等科に進学した。今度は目白で、全寮制であったが、皇族は「別寮」と呼ばれる建物に住んだ。「別寮」は本来院長官舎として建てられたものであったが、乃木院長ご自身は院内にある木造の質素な建物に住んで、官舎を皇族用の寮とされたのである。この建物は、いまは犬山の明治村に移築されて、往時をしのばせている。

中等科1年生と言えばいたずら盛りである。煙突に登ったり、テーブルの中でヘビを飼ったり、窓越しに雪合戦をしたりして先生たちを困らせた。小使いが呼びに来る。すると必ず先生からお目玉であった。だが動物好きは相変わらずで、動物の時間を担当されていた飯塚啓教授が、時々、私を教員室に呼んで本や標本を見せてくださった。

当時の学習院の生徒の中には陸軍幼年学校を志望する人が多かった。幼年学校は中学1年を修了した者が受験し、入学は9月である。このため学習院では中等科1年の冬休みから幼年学校志望者のための補習授業を行っており、私もこれに通った。

陸軍幼年学校を目指したのは自分自身の意思というわけではない。明治41年に父がなくなった時に、明治天皇からのごさたがあり、兄は海軍に、私は陸軍に行くよう定められていた。私も極めて当然のこととして、これに従ったのであった。

9月に陸軍中央幼年学校予科に入学した。担任教授は藤田中尉といい、陸軍では変り種に属する。フランス語に堪能な、ハイカラな人であった。仏領インドシナに留学生兼陸軍武官として駐在していたのである。大変親切にしていただいたが、健康にすぐれず休みがちであった私は、藤田中尉には非常に心配をかけてしまった。

幼年学校のふん囲気は学習院とはガラリと異なるものだった。全国のさまざまな階層から生徒が集まっている。中には電灯を初めて見たという人や、初めての日曜日には品川に海というものを見に行こうと勇んでいる人などもいた。

こういう人のためというわけでもないが、毎週水曜日の午後は、東京見学の時間となっていた。後楽園にあった砲兵工廠、本所の被服廠や糧秣廠といったところが多かったが、大学にも行った。医学部の解剖学教室の見学などもあって、死体置き場や実際に解剖しているところなども見学させられた。

そうした見学の一つで、早稲田大学を見学したことがあるが、大隈重信侯が先頭に立って接待してくれて、祖父晃親王の下で働いていた明治初めのころの思い出話を聞かせてくれた。

幼年学校で私が得意とした科目は数学、国語、博物などであったが、わけても動物学は好きなものであった。担当は安東伊三次郎教官といい、私が動物好きなのを知って、放課後も教官室に残って標本を見せてくれたり、日曜日には私の自宅にまで来て標本の作り方や、顕微鏡の見方なども教えてくださった。

このころから日曜日には、しばしば郊外に鳥の採集に出かけるようになった。かつて父がやっていたように猟銃を持ち、松戸や馬橋、赤羽、吉祥寺などに行って、鳥を採集した。このあたりが日帰りで行ける極限であった。

予科3年を終えて大正6年に本科に入った。本科は2年間で、毎週土曜日には演習が行われる。青山や、代々木、落合などで行うのだが、当時はそのあたりは全く人家も少ないいなかであった。

本科の私の級の区隊長は野口誠中尉と言い、多くの生徒から信頼を受けていた。この人はいつも「若い者はみな、末は大臣か大将かと望みを抱く。それも良いが、実際になれるのは千人に一人、万人に一人しかいない。それよりも、自分が入った場所で、なくてはならない人になれ」と言っていた。私もこの言葉に深い感銘を受けた。そのせいか、今ではみんなから頼られ過ぎて、いささか困っている。

(日本経済新聞 1979年5月1日)

▲ このページのトップへ