大正8年に陸軍中央幼年学校を卒業した。卒業生はみな士官候補生として連隊づきとなる。私は横須賀の野戦重砲兵第二連隊に配属された。この連隊は重砲を馬で牽引(けんいん)して移動できるようにした部隊だが、編成されたばかりで、隊舎も仮のものだった。そのころは東京へ日帰りが困難なので、横須賀市内の中里というところに家を借りて、休日をそこで過ごした。この家には庭に池があったので、そこに宮内庁のご猟場のトモエガモを分けてもらって飼っていた。
このころには、三浦半島全体にホトトギスが大層多く、夏などは汽車が逗子駅に着くと、かたわらの岡から、必ず鳴き声が聞こえていた。徳富蘆花の小説「不如帰(ほととぎす)」も逗子が舞台だが、この鳴き声がヒントとなったのではないかなどと思った。ホトトギスは桜の毛虫が好きで、「あの声で毛虫を食うかやほととぎす」などという句があるが、中里の家の桜の木にもいつも来ていた。
野戦重砲兵なので、演習はやたらな所ではできない。観音崎や千駄が崎まで出かけたが、景色も美しいし、空気も澄んでいる。房総半島をすぐ指呼の間に見ながらの演習は楽しいものだった。また日ごろ馬を扱う兵種なので、乗馬は日常の足である。三浦半島で一番高い大楠山の頂上まで、道なき道を踏み分けて乗馬のまま登ったりもした。
その年の秋には横須賀に仮住まいしていた連隊が、静岡県の三島に本隊舎ができたので引っ越した。三島は隊舎の前が一面の演習場で、そのすぐ先には富士山と愛鷹山がそびえている。日本一景色の良い連隊だろうと思ったものである。
休みの日には、御殿場寄りの佐野にある佐野の瀑園や、愛鷹山のすそ野など、鳥の多い所に行っては標本採集を行った。
12月に陸軍士官学校に入学した。33期生である。もともと身体が丈夫でなかったうえ、演習などもさらに厳しくなったため病気がちで、よく休み、担当の先生方には随分迷惑をかけた。
大正9年7月5日に満20歳になった。成人となった儀式は宮中の賢所で行った。未成年者の服は童服というが、成年に達したので衣冠束帯に着がえて賢所に報告の儀式をしたのである。そして勲一等旭日桐花大綬章を授けられた。
戦前の皇室典範では、成年に達した宮家の二男以下は、臣籍降下をして天皇から姓を賜り、別家を立てる。私もこの日に臣籍降下を行い、大正天皇から山階の姓を賜わって侯爵に列せられた。この時に紋付文台硯箱(すずりばこ)と侯爵家創設のための支度金として100万円をちょうだいした。
山階侯爵家はその秋の10月17日に、仮邸を豊多摩郡千駄ヶ谷町大字原宿170に設けた。今は若い人たちでにぎわう、青山から原宿へと向かう大きな通りのかたわらである。
大正10年7月に陸軍士官学校を卒業し、今度は見習士官として三島の野戦重砲兵連隊に戻った。その年の10月に陸軍少尉となった。士官は営外居住である。私は沼津の千本松原に家を借りて三島まで通った。雨の日は自動車だったが、天気の良い日にはたいていオートバイで通った。
オートバイに乗り始めたのは士官学校時代からだが、このころは免許なども特別に必要なかったし、また、交通法規などがやかましかったわけでもない。英国製のモントゴメリーという4気筒並列式で、当時のオートバイによるスピードの世界記録を作った大型車が1台と、やや小型のものが1台あった。
のちに東京府豊多摩郡渋谷町上渋谷、後の南平台に本邸ができて住むようになってからも、これらのオートバイを乗り回していた。南平台の家を出て、今の代官山から山手通りを回り、さらに玉川通りを経て再び家に戻るまで、林ばかりの静かな中からオートバイの轟音(ごうおん)が聞こえ続けていたというから、さしずめ、今のカミナリ族の元祖とでも言ってよかろう。
(日本経済新聞 1979年5月2日)