陸軍での私の初仕事は新兵教育である。中隊の中の三つの小隊のうち一つを預かった。野戦重砲連隊とあって、各地で応召した者の中から体格の良いのを選りすぐって集めているので、時々、相撲取りなども入ってくる。だが、中には物覚えの悪い、今の言葉で言えば"落ちこぼれ"が、100人のうちには3人か4人かはいた。そうした人たちをも含めて、半年の間にともかく一人前の兵隊にしなければならない。今の先生たちの苦労がよくわかる。
ただ、1小隊となるとありとあらゆる職業の人がいて、何が起こっても専門家がいた。富士のすそ野に演習に行った時なども、「だれか山芋を掘ってこい」と言うと、ちゃんと専門家が出て来て掘ってくる。長くて細い芋で、すぐに折れてしまうものだが、それを傷つけずに掘ってくる。大変便利が良かった。
休暇にはやはり鳥の標本採集に出かけた。東海道線の原の愛鷹山寄りにある、浮島沼によく行った。この沼は正式な名を須津湖といい、山中、河口、本栖、精進、西湖の現在の富士五湖に、この須津湖と明見湖を加えて当時は富士七湖と呼んでいた。今では畑や田となって跡形もなくなり、新幹線もこの上を通っているが、そのころの浮島沼は鳥の多いところで、いろいろな鳥が来ていた。朝早く家を出て、採集したものである。ここで採集したコジュリン、シマクイナなどは今も研究所に保存されている。
いつも一緒に行ったのが、井上恒也という美校を出て文展に入選したての画家だった。沼津の千本松原の私の家の近くに住んでいて猟銃も巧みだった。絵は鳥の絵が得意で、今も1年に一度は三越画廊などで個展を開いているのでそのころを思い出す。
こうして集めた標本や資料をまとめて大正13年4月に「静岡県東部の鳥類」という論文を書いた。私の最初の論文で、翌大正14年に日本鳥学会の機関誌「鳥」に発表した。富士山東麓(ろく)、南麓、伊豆半島などの鳥約130種の分布を調べ、分類をしたものである。今では東北地方の一部だけでみられ天然記念物となっているコジュリンなどもここにいた。
陸軍でも私のいた砲兵の場合、さまざまな勉強が必要である。大砲を撃った時の弾道の計算には数学や物理、火薬の調合、研究には化学、砲弾の設計には工学……といった具合である。こうした特殊な技術的な学問を学ぶため、任官して1年たつと、陸軍砲工学校へ行く。
私も大正12年1月に東京の市谷河田町にある砲工学校普通科に入った。この年に関東大震災が起きたが、学校から家に帰る途中にいた私は何の被害も受けずにすんだ。普通科1年を修了すると選ばれた何人かがもう1年、高等科に行く。私も残って、高等数学、理論物理学、冶金学などのより専門的な学科を学んだ。高等科に在学中、中尉に昇進した。
高等科の卒業者は希望するとさらに東大の工学部や理学部に行って勉強し、高級技術将校になる道が開けていた。私も部下を指揮して野山を駆け回るよりも、研究生活の方が好きだったので、進学を希望したが入れられなかった。大軍を指揮する司令官となれというのである。そのころの軍隊では技術将校は一段下のものと見られていたのである。
大正13年12月に高等科を卒業すると、一度、三島の連隊に戻ったが、すぐ東京の世田谷に新しく編成された野戦重砲兵第八連隊に転勤することになった。この連隊は日本では初めての機動部隊で、重砲はキャタピラつきの牽引車が引き、兵員もトラックやオートバイで移動するものであった。初めて編成された部隊であり、何でも工夫してやらなければならなかったが、それだけに興味はあった。
この年に渋谷の新邸が完成した。現在、山階鳥類研究所のある場所だ。豊多摩郡渋谷町上渋谷525の地で、もとは西郷従道の猟場で、西郷山と呼ばれ、林が茂って家などないところだった。夏は近くの小学生が林間学校をやっており、夕暮れには近くで追いはぎが出たりした。そうした林の中の一軒家で物騒だというので、渋谷の警察が私の家の横に駐在所を建ててくれた。それが今も鉢山派出所として残っている。この新邸から連隊まではしばしばオートバイで通った。今度は職務上なので堂々と走った。
(日本経済新聞 1979年5月3日)