永年の夢がかなって軍服を脱ぎ、いよいよ鳥類研究一筋に生きることになった。だが、これまで私がやってきた研究はあくまで素人の研究の域を出なかった。そこで基礎からしっかり勉強し直そうと、昭和4年4月に東京大学の理学部動物学科の選科に入学した。
当時の動物学教室はレンガ造りの2階建てで、関東大震災の時にあちこちヒビが入り、内側から材木でつっかえ棒をしているというありさまだった。このため、最初は「喜んでお迎えしたいのですが、どんな危険が起こるかも知れませんから……」ということだったが、「それはかまいません。お願いします」と入学させてもらった。
動物学科の主任は谷津直秀教授、私の担当は助教授の田中茂穂先生だった。田中先生は魚の研究の世界的な権威で、伝説かもしれないが、学問一筋に明け暮れて、日露戦争も知らなかったといわれている。学位なども眼中になかったが、谷津教授のあと、主任教授になることに決まったものの、大学では博士号がないと困るという。世界的権威に今さら博士論文を出せというわけにもいかないので、理学部の主任教授が口頭試問で博士にしてしまったという。エピソードの多い人だった。
この田中教授のもとで、動物学の基礎的な学問をみっちり学んだ。生態学、形態学、分類学、実験生態学、発生学などであった。当時東大には鳥類専門の講座はなかったが、これらの基礎学問はすべての動物研究に必要なものであった。
昭和6年3月に東大の動物学選科を修了し、自分で研究をすることになった。そのための研究室として建てたのが山階家鳥類標本館で、山階鳥類研究所の前身である。昭和6年秋に着工し、完成したのは昭和7年春であった。鉄筋コンクリート2階建て126坪(416平方メートル)で、1階が研究室と図書室、2階が標本室になっていた。まだ冷暖房などない時代であったので、2階の標本室が外の気温に直接影響されないよう、天井を2層にした。当時の金で5万円かかった。完工後、約1年間湿気を抜いて、昭和8年春から標本類などを運び込み、その年の5月に開所式を行った。
大変丈夫な建物で、50年近く経た現在も建物としてのいたみはほとんどない。戦後、電気工事やガス工事、冷房工事のために壁に穴を開けようとした工事人が、どこを開けても鉄筋にぶつかると言って嘆いていた。ただ、戦争中に10発も焼い弾の直撃を受けたのにもかかわらず、二重天井のために焼けずにすんだが、天井にひびが入り雨もりが長い間続いた。天井の上にもう1階継ぎ足す以外、雨もりを防ぐ方法はないと言われ、昭和41年に上にもう1階積み重ねて現在のように3階建てとしたのである。
山階家鳥類標本館の体制は私が館長格で、研究員には北大出身の山田信夫、飼育担当は妻の寿賀子と佐藤勇吉、佐久間英松の3人、標本・図書管理が日和三徳、そして標本採集のための嘱託として折居彪二郎という人をお願いした。
研究の第一歩は標本の採集と鳥類の飼育観察であったが、標本採集については次回で詳しく述べよう。鳥類の飼育観察はヒナの発育に伴う変化と野生鳥類の習性、特に繁殖習性についての調査観察である。このころは鳥の野外での生活や巣の作り方など、まだほとんど知られていなかった。
庭にかなり大きな禽舎(きんしゃ)を約30建て、その中にブッシュに住む鳥のためにはブッシュを生やし、林に住む鳥のためにはそれと同じ環境を作って観察した。野鳥については日本のさまざまな種類のほか外国産のキンパラ科、ハタオドリ科の鳥についても研究した。また、幼鳥の発育に伴う変化については寿賀子が中心となり、樺太からミクロネシアに至る各地で採集した幼鳥を籠(かご)の中で飼って、羽毛の色や形態の変化などを詳細に観察し、スケッチを残した。
これらは私の著作「日本の鳥類と其の生態」第1巻(昭和8~9年)、第2巻(16年)の貴重な資料となったが、この本はさまざまな鳥の発生段階を記録してある唯一の本として、発行後四十数年経た今も鳥類学者には欠かせない本の1つとなっている。
(日本経済新聞 1979年5月5日)