鳥類を研究する時、生きた鳥がいつも手元にあればそれに越したことはないが、そういうわけにはいかない。そこで標本が必要になる。標本というのは鳥の肉を取り、頭がい骨と四肢の骨以外の骨も取って皮と毛だけにした、いわば鳥のぬいぐるみである。これを寝たような形にして保管する。
研究の最も根本となる標本採集のために嘱託として頼んだのが折居彪二郎氏である。この人は標本採集者として国際的に名を知られていた。英国人に頼まれた採集が一段落ついたところで来てもらったが、射撃もうまく、標本作りも天才的にうまかった。
採集者は普通、その調査地に1、2年住み込んで鳥を採集し、すぐ標本にする。ことに南洋では朝撃った鳥は、昼にはもう腐ってしまうので、午前中に標本にしてしまわなけれはならない。午後撃ったものは夕方のうちに標本にする。まず内臓、脳などは取り去ってホルマリンづけにし、肉や皮下脂肪など腐敗するものは取り除き、骨格も別にホルマリンにつける。頭がい骨と羽つきの皮だけの鳥に薬品処理を施して標本とし、標本及びホルマリンづけの骨格、内臓などを依頼者に送る。私の方は送られてきた内臓の内部を調べて、どんなものを食べているかなどを調査するのである。その地域の鳥の種類のうち90~95%ぐらいの標本が集まると引き揚げてくるのである。
それらの標本の中から、これまで外国でも調査されたことがないような、学問的に興味のある種類をいくつか選び出し、今度は専門の勉強をした山田信夫研究員が野外における生態を調べるために出かけてゆく。これも短くて1年、長い時には3年近くも山にこもって鳥を追跡する。こうして鳥の生態、習性などがわかってくると、私が確かめに行き、足りないところを補うというように三段構えの調査をする。
折居彪二郎氏によって標本採集した南樺太(大正15年~昭和2年)、北千島幌筵島(同3年)、朝鮮半島(4~5年)、ミクロネシア(5~6年)、台湾(7~8年)、満州(現中国東北地方=10年)、他の採集者によるものが、小笠原群島、伊豆七島、南千島、北海道、琉球列島、中国など、現地在住者に頼んだのがロシア領北樺太、フィリピン、セレベス、ハルマヘラ、ニューギニアなどである。
これに基づく山田研究員の生態的観察と繁殖習性の調査は、樺太(昭和7~9年)、台湾(10~12年)、パラウ群島(13年)、日和三徳館員が伊豆七島(9年)、後に研究員となった鳥居元が台湾(14年)で行っている。
こうした基本調査の後、私が現地に出かけてゆく。昭和4年には北海道、翌5年には小笠原諸島及び伊豆鳥島、7年にはミクロネシア、9年には樺太、11年には朝鮮半島、15年には台湾に出かけた。この旅行には妻の寿賀子がすべて同行し、ある時には私と別行動をとって、生態の観測やスケッチをした。私にとって生活の上ばかりでなく、研究の上でも右腕となっていたのである。
最初の研究旅行は北海道であった。北から南からほとんど全道をくまなく回った。今でこそ観光ブームの北海道であるが、ちょうど50年前には旅行者などは全くなく、支笏湖はうっそうとした森林に覆われており、一歩湖畔を離れるとヒグマの足跡が残っているという状態だった。また知床も人跡未踏の地で、まさに秘境の名にふさわしかった。
小笠原諸島にはその翌年行き、2ヶ月かけて父島、母島をはじめ聟島など小さな島に至るまですべて船で回った。鳥島への上陸は研究者としては恐らく初めてであろう。まだアホウドリの天国で、およそ2000羽くらいが群れ飛んでいた。その様子を16ミリ映画に撮ってきたが、これがアホウドリがたくさんいた時の唯一の記録となった。この映画は世界でも貴重なものであり、そうした資料を集めているアメリカの国立科学財団がぜひ保存したいというので、コピーして贈った。鳥島のアホウドリはその後絶滅したと伝えられたが、4羽戻り、保護に全力を尽くした結果、今では60羽か70羽になっているという。なお、ごく最近尖閣諸島の南小島で23羽のコロニーが発見され、関係者を喜ばせている。
(日本経済新聞 1979年5月6日)