話は終戦直後に戻るが、このころ、研究所は組織立った研究は全くできず、私が養鶏や農作業の合間に戦前に集めた標本の分類や細胞学的な研究のとりまとめを行うのみであった。
そのうち日本中のたんぱく質不足がひどくなってきたので、文部省からの委託で鶏の増産の研究をすることになり、久留和の別荘に鶏舎を8軒増築し、山階鳥類研究所大楠分室と呼ぶことにしたが、当時文部省の科学局長であった茅誠司氏も視察に来た。ここでは、純粋度の高い2羽の鶏をかけ合せると、丈夫で成長が早く、体重も大きな子ができるのを利用し、これを人工授精でどんどん作り、さらによく卵を産むよう品種改良の作業をすすめた。
メスが最も卵を長く産まない時期は、巣について卵を抱き、ヒナを育てる時である。これは遺伝的な性質で、オスを経てメスに遺伝される。そこで、オスにプロラクチンという脳下垂体ホルモン注射をすると、本来、就巣遺伝を持っているオスが巣につくことを知った。この方法を利用し、就巣遺伝を持っているオスと持っていないオスとを判別し、就巣性を持たないオスを種オスとして、就巣性のない系統を作ることに成功した。この系統のメスは、巣につかず、1年中卵を産み続けるのである。
アヒルとバリケンの雑種、ドバンも作った。台湾から種鳥を取り寄せ、人工授精を利用して少数の種鳥から多数のヒナを作ることに成功した。
昭和27年に民間研究機関助成法という法律ができた。この法律は山階鳥類研究所のように窮状にある民間研究機関を救済するため資金援助しようというもので、職員の人件費にも使えるので大変ありがたかった。研究所の運営は現在も主としてこの助成金に頼っている。
昭和30年代になると農林省や林野庁の研究が盛んになり、委託研究も多くなってきた。33年には農林省から有益鳥類の森林での利用法の研究、37年には野生鳥類の生活環境の調査、36年からは渡り鳥に標識をつけて放す研究、39年には文部省から天然記念物アホウドリの調査などを委託されたが、これらは委託調査費も出るし、研究所独自の研究と並行してできるので大変助かった。
昭和39年から5年間、米軍の移動動物病理研究所(MAPS)の委託で鳥類の標識試験をやることになった。MAPSは立川にあり、渡り鳥がさまざまな病菌やビールスを運ぶため、世界各地の米軍がいろいろな病気にかかる。これを調べるため渡り鳥に標識をつけて飛ぶ経路などを明らかにしようという調査であった。
終戦直後の変わった研究では奈良の正倉院の調査がある。正倉院の御物は毎年10月に曝涼(ばくりょう)を行っているが、その間に学術調査を行う。私は昭和28年から3年間、毎年4日間鳥類関係の品の調査を引き受けた。その中に翡翠(ひすい=カワセミ)の羽で作ったといいつたえられて来た装飾品や矢羽などが保存されている。調べた結果、これらの品は翡翠の羽毛と呼ばれて来たが、実は翡翠すなわちカワセミの羽ではなく、カケスの初列雨覆(しょれつあまおい)の数枚の美しい色の羽であることがわかった。
また、かつては鳥の羽根で美しく彩色されていたという「鳥羽立女屏風」の羽が何であるかも調べた。ほとんど虫が食ってしまったのだが、この樹下美人の図のごく一部に3ミリ足らずの茶色の羽が残っていた。この羽毛はキジかヤマドリの類のものであることがわかったので、東京に帰ってからそれらの鳥の羽を集めて、ブラック・ライトという完全な紫外線で照らしてみたところ、それぞれ蛍光の色が異なっていた。そこで正倉院にブラック・ライトを持ってゆき、立女屏風の残った羽にあてたところ、蛍光の光から、日本のキジの羽毛であることがわかった。この屏風は日本で作ったのか,大陸で作ったか、意見が分かれていたが、この調査からも日本で作られたことが明らかになったのである。
研究所は戦後こうした研究を続けてきたが、財政的にはいつも窮状にあった。それを知ったアメリカ、イギリス、スイスなどの民間の篤志家たちが多額の寄付金を贈ってくれ、危機を切り抜けることができたことがしばしばあった。
(日本経済新聞 1979年5月17日)