昭和35年5月に東京で国際鳥類保護会議(ICBP)総会が開かれた。この総会は、前回のヘルシンキで打診があり、引き受けることになったものだが、東洋では初めての大会で期待が集まる一方、国内では国際的な会議など、まだほとんど開かれていないころだったので、準備には大変忙しい思いをした。
まず会議の準備、運営などの諸経費が約500万円かかるが、これをなんとかしなければならない。政府がなかなか補助をしてくれないので、金集めにかかった。高碕達之助氏や畠山蔵六氏らが理解者であったので、これらの方々から紹介状をもらったり、連絡してもらって、財界人から寄付金を集めてまわった。鳥類保護の重要性を強調したのだが、寄付をした多くの人々は鳥よりも高崎氏や畠山氏に顔を立てたようであった。とにかくそれらの金に、林野庁が補助することになった100万円を合わせて、会議を開くことができた。
会議は東京・青山の国際文化会館で行われたが、前もっての準備をはじめ、当日の事務、案内、通訳などはすべてボランティアの人々がやってくれた。鳥類保護団体の人々、日本鳥学会の人々、学生、役人の奥さんたちで、それぞれ手分けして全くの無料奉仕でやってくれた。当時の若い人たちにはまだ奉仕の気持ちがあったが、物質的になった現在の若い人を見ていると、もう昔のような形では開けないのではないかと思うことがある。
この会議の席上、ヨーロッパやアメリカにはある渡り鳥保護条約がアジア地域にはないので、これを結ぶべきだという決議がされた。これが後の日米条約、日ソ条約の基になったのである。また、鳥の研究をするうえで、標識試験が大切で、欧米では標識をつけて放鳥しているが、アジアでも協力してやるべきだという勧告がなされ、これも2年後から林野庁が3年間行い、私のところの研究所で引き継いで現在に至っている。
さらにICBPでは大陸ごとに部会を作っているが、アジアにはまだないので、これを作ろうということになった。この会議に参加した日本、香港、韓国、台湾、インド、フィリピン、タイがすぐ参加して、さっそくアジア大陸部会を作り、部会長には私が選ばれた。アジア大陸部会には後にイラン、スリランカ、イスラエル、バングラデシュ、インドネシアなども加わった。
会議には当時農林大臣だった福田赳夫氏が出席したり、東京都がパーティーを開いてくれるなどして、それまで鳥類保護に全く無関心であった官庁関係者に保護に対する認識が芽生えた。また、日本ばかりでなくアジア諸国でも、この会議をきっかけに鳥類保護の機運が盛り上がってきた。
このあと、国内の見学旅行を行った。まず埼玉県の野田のサギ山から。このころはまだサギがたくさんいて参加者は大喜びだったが、その後、農薬で餌のカエルや魚がいなくなり、また、農薬入りの餌を食べたため、サギそのものも中毒を起こし、ヒヨコが育たなくなり、今では1羽もいなくなってしまった。
京都・奈良の鹿、別府の高崎山の猿、北海道の丹頂鶴などを見て回ったが、当時はまだ開発が進んでいなかったため、各地を移動する時に乗った飛行機から見下ろす日本は緑一色であった。このため、参加者たちは口々に「日本はよく自然が保護されている」とほめそやした。その後開発が急ピッチに進み、日本中至るところはげ山だらけとなったが、その時の参加者は今でも会うと日本の緑の美しさを言うので、返事に困ることがある。
だが、この会議によって世界の研究者たちの日本に対する印象は大変良くなったようだ。私はこのあとしばしば国際会議に出かけたが、東京の会議に参加したという人が、みな「あの会議は大変楽しかった」と言って、行く先々で歓迎してくれた。
(日本経済新聞 1979年5月19日)