所蔵名品から

第11回 再発見されたタイプ標本
-絶滅鳥 リュウキュウカラスバト(東京帝室博物館標本)-

種名 リュウキュウカラスバト Columba jouyi
性別 不明
番号 東京帝室博物館 NO. A849
採集日 1887年2月3日
採集地 沖縄島クンチャン

タイプ標本(模式標本)とは、新種や新亜種を発見して発表するさいに研究者が参照したその種なり亜種なりの標本のことです。研究の進展によって動物の分類に疑いが生じたり変ったりした時にも、タイプ標本を明らかに指定しておくことにより学名の混乱を最小限に防ぐことができます。このため、国際動物命名規約という動物学者の国際的な取り決めで、タイプ標本の指定や管理などについてさまざまな取り決めがなされています。

1994年のある日、筆者とともに標本管理を担当している百瀬邦和は、標本の整理作業中に、多数のカラスバトの標本の中に紛れて、上背に白斑のある古びた標本があるのを発見しました。百瀬は一見して絶滅鳥のリュウキュウカラスバトと気付きましたが、標本のラベルをよく調べてみるとこれがこの種のタイプ標本であることがわかったのです。この標本は、アメリカ合衆国の動物学者L・ステイネガーが1887(明治20)年にこの鳥を新種として発表したさいに使った標本でした。リュウキュウカラスバトのタイプ標本については、黒田長久(現在、山階鳥研の名誉所長)が1996年に作成した山階鳥研所蔵のタイプ標本リストに載っておらず、その他のいろいろな資料でも現在の所在がはっきり書いてないものが多かったのです。1980年代の後半から山階鳥研の標本管理に携わるようになった百瀬と筆者も、この標本があることを知りませんでした。

このハトは、大きなハトで、お寺や公園にいるドバトよりひと回り大きく、日本周辺の島嶼を中心に現在も生息しているカラスバトよりやや大きい鳥です。全身が黒くカラスバトによく似ていますが、上背に三日月形の灰白色の斑があるのが特徴で、標本を見てみますと頭部の黒色には紫色の金属光沢があり、白斑に到るまでの頸の黒色部分には緑色の光沢が見えます。もしも生きたものを太陽の下でまぢかに見られればとても美しい立派な鳥だったのだろうと想像されます。
この鳥は、沖縄本島と周辺の島嶼、それから大東諸島に分布していましたが、1936年を最後に記録がなく、絶滅したものと考えられています。生態については記録がありませんが、カラスバトと同様に沖縄の森林でおもに木の実を食べて生活していたのでしょう。絶滅の原因も不明ですが、山階鳥研の創立者の山階芳麿は、森林の開発と食用のための狩猟が原因だったのではないかと推測しています(「この鳥を守ろう」)。

この標本は太平洋戦争後、山階鳥研に学習院から移管された標本のなかの1点で、もともとは東京帝室博物館(戦前の宮内省所管の博物館で、現在の東京国立博物館の前身)の所蔵品でした。この標本をはじめ学習院から来た標本には、現在でも東京帝室博物館のラベルがついています。現在の東京国立博物館は美術中心ですので、前身の帝室博物館に生物の標本があったというのは奇異に感じますが、明治大正時代の国の博物館は、所管官庁や名称、対象分野等にかなり曲折があり、帝室博物館も関東大震災までは天産部(課)といって自然史系の標本を扱う部門があったのです。

中央のラベルにタイプ標本の表示がある(合衆国国立自然史博物館のラベルを転用してある)。下のラベルに「東京帝室博物館」の文字が見える。

山階鳥研の帝室博物館標本には珍しい外国産鳥類なども多数含まれており、明治時代には国で熱心に自然史系の標本を収集していたことがわかります。なお、このリュウキュウカラスバトの標本は、いちばん初めは東京教育博物館(文部省所管の博物館で、現在の国立科学博物館の前身)の所蔵品で、それが帝室博物館に移されたものでした。もともと東京教育博物館で収集されたもので、アメリカ合衆国国立自然史博物館のステイネガーに同定のため送られ、新種と認められて論文発表の後、返却されてきたものと考えられます。

最初にも書きましたが、タイプ標本は分類学上重要な役割を担っており、それらの所在情報をきちんと明らかにしておくことは将来の研究のためにも極めて重要です。山階鳥研で所蔵しているタイプ標本については前出の黒田のリストがありますが、現在改めて洗い出しを行なっています。この標本以外にも従来のリストに漏れているものがいくつか出てきており、これらを含めてより完備したリストを発表できればと考えています。(資料室標本担当 平岡 考=ひらおか・たかし)

山階鳥研NEWS 2002年10月1日号(NO.163)より

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