2024年9月5日掲載
文化資料ディレクター 鶴見みや古
山階鳥類研究所が千葉県我孫子市に移転して今年で40年を迎えます。これを記念して、我孫子市鳥の博物館と共催で、企画展「山階芳麿博士の作った図鑑ー『日本の鳥類と其の生態』ができるまでー」を開催しています。
山階鳥類研究所の創設者山階芳麿(やましなよしまろ)博士(1900-1989)は、『日本の鳥類と其(そ)の生態』という全2巻からなる図鑑を1934年と1941年に出版しています。
この図鑑は通称「山階図鑑」と呼ばれ、出版から90年が経った現在も活用されている山階博士の代表的著作です。この図鑑が現在も活用されている理由は、記述が正確で、日本産鳥類の測定値や換羽などの情報が詳細に書かれていることにあります。また、この図鑑の大きな特色は、挿し絵に木口木版(こぐちもくはん)という版画の技法を用いていることです。山階図鑑が作られた時代には、挿し絵には写真製版を用いることが一般的で、木口木版を用いた日本の鳥類図鑑は本書のみです。では、なぜ山階博士は手間も費用もかかる版画を用いた図鑑を作ったのでしょうか。
「山階図鑑」制作のきっかけは、ドイツに留学していた父が持ち帰った本*との出会いにありました。「子ども心をひきつけたのは、その本のさし絵に鳥たちの木版画が載っていた事である。なにしろ、一枚一枚の版画がすばらしかったのである」と、山階博士は後年に語っています。「自分もこのような図鑑を作りたい」、その夢の実現が「山階図鑑」だったのです。「山階図鑑」が作られた1930年ごろ、木口木版はほとんど使われなくなっていた技法でした。それでも山階博士が木版画にこだわったのにはこのような思い出があったのです。
鳥類学者になることを決意した山階博士は、1932年に山階邸があった現在の東京都渋谷区南平台の敷地の中に鳥類標本館を建て、鳥を飼育するための禽舎も作りました。「日本の鳥について殆んど何もわかっていない時だから、何もかも一から始めねばならない」、山階博士は図鑑制作のために標本や図書の収集を始めます。当初図鑑は全5巻(第1巻から第3巻までは樺太・千島などを含む旧日本領土を中心とした地域。第4巻は奄美大島以南の琉球列島及び台湾などの地域。第5巻は南洋群島でかつて日本が委任統治していた地域)となるよう計画しました。
山階博士は目標を達成するために、自身で各地に調査に赴くほか、人を派遣して鳥類を採集するなどして、1934年に第1巻を、1941年には第2巻を出版します。しかし、太平洋戦争の激化と敗戦、戦後の研究所の財政難によって図鑑の制作は中断を余儀なくされ、第3巻以降は出版されることなく、1989年、山階博士は88歳でこの世を去ります。ところが、山階博士は図鑑のための執筆を続けていたことが資料整理を進めるなかでわかりました。第3巻用の直筆原稿(ガンカモ目)の一部と挿し絵のための原画、木口木版の版木と摺り見本が見つかったのです。山階博士の、版画を用いた鳥の図鑑を作りたいという夢のすべては叶いませんでしたが、困難のなかにあっても夢をあきらめなかった博士の研究資料は、今も大切に研究所に保管されています。
「山階図鑑」は山階博士の単著ですが、その制作には多くの人々がかかわっています。第1巻の凡例には、鷹司信輔(たかつかさのぶすけ)博士(1889-1959)、黒田長禮(くろだながみち)博士(1889-1978)、内田清之助(うちだせいのすけ)博士(1884-1975)といった当時の鳥学界を牽引した研究者の名前が見られ、本書をよく読むと、山階博士がこれらの研究者の標本や著作を参考にしたことがわかります。彩色図版には、当時を代表する博物画家小林重三(こばやししげかず)(1887-1975)、山階博士の夫人山階壽賀子(すがこ)(1903-1966)のサインが見られます。そして写真図版には野鳥生態写真の先駆者下村兼史(しもむらけんじ)(1903-1967)の名も。「山階図鑑」は、完結は果たせなかったものの、当時の鳥類学の知見を集積し、多くの人々の協力を得て作られた、山階博士の夢が込められた図鑑と言えるでしょう。
*von A.E.Brehm 1891. Brehms Tierleben, Die Vögel. Bd.1-3.(ブレームスの動物の生活.鳥類.第1〜3巻)
(文・つるみ・みやこ)