2022年1月27日掲載
山階鳥研は創立以来、日本の鳥類学の拠点として活動してきましたが、戦後、自然史関係、生物学関係の団体やグループのさまざまな活動の場としても重要な役割を果たしました。山階鳥研のウェブサイトには、「(戦後)小さな建物に動物分類学会、生物地理学会、日本野鳥の会などの学会関係機関が身を寄せて再出発しました」との記述があります。1950年代に昆虫好きの中学生として東京渋谷・南平台の山階鳥研に通われた、林縝治さんに思い出を綴っていただきました。
元 横浜市立大学教授、元 人間総合科学大学教授、
NGO「東京湾の環境をよくするために行動する会」理事長
林 縝治
渋谷駅からしばらく歩いて南平台の山階鳥類研究所に通ったのはすでに半世紀以上前になる。渋谷駅前の繁華街を抜けて、緑が濃い町並みに入り、うっそうとした木々に囲まれた山階研の建物を思い出す。それは1954年から57(昭和29〜31)年にかけてであった。私が中学(杉並区立高円寺中学校)に進んだときに、新任の先生として、須田孫七先生が赴任してこられた。須田先生は、東京学芸大学の卒業生でいわゆる「虫屋」であり、甲虫を中心に蒐集(しゅうしゅう)されていたと思う。部活動の指導として生物部を担当していた。私達は須田先生に引率されて、毎月「昆虫談話会」のために山階研の集会室に通った。山階研の創立後22年位になる時期である。建物や室内は古色蒼然としていて、アカデミックな雰囲気を醸(かも)し出していたように記憶している。
須田先生は、東京学芸大学の古川晴男先生のお弟子さんで、おそらく同級生と思うのだが、矢島稔さん達とこの談話会を開いていた。これは「京浜昆虫同好会」と「東京昆虫同志会」の合同の談話会で、東京近郊の虫屋の集まりだった。矢島稔さんはその後東京都多摩動物公園で広い温室の中に昆虫を放し飼いにする昆虫館を作られ、後に「ぐんま昆虫の森」の園長として、同様の施設を作られた。ちょうど野外で蝶などの昆虫に接するのと似た環境となるのである。
セミの研究で有名な加藤正世(まさよ)先生もこの会に出席されていたかは思い出せないが、セミ類の話ではいつも加藤先生のことが話題になったと思う。加藤先生は「昆虫界」という雑誌を発行しておられて、私は同級生と一緒にアリの行進についての観察記を書き、「昆虫界」に載せていただいた。それが私の(共著ではあるが)初めての論文ということになる。なお、加藤先生が蒐集した標本は、石神井公園に隣接した「蝉類博物館」に展示されていたが、今は東京大学総合研究博物館に寄贈されているとのことである。
当時の記録を調べると、東京にはまだ大空襲の痕跡が残っており、このような同好の人達が集まる会場が少なく、戦火を逃れた南平台の山階研はこのような人達に会場を提供する限られた施設であったようだが、当時中学生であった私にはそのような状況は知るべくもなかった。
山階研でお世話になったのは高島春雄先生である。高島先生は山階研の所員として、生物学、特に動物学の研究者や若い学徒にいろいろと便宜をはかってくださったようである。上記の「昆虫談話会」への会場提供もその一つであったものと思う。また、先生の関心は鳥類のみでなく、哺乳類など広く動物一般に及んでいたようである。
高島先生には誘われてNHKの子供向けの番組(「仲良し動物学」だったかもしれない)に何回か出演させていただいた。当時はまだテレビは一般的ではなく、ラジオの番組である。ガリ版刷り台本があり、それにしたがってセリフをいうことになっていた。「ここで笑ってください」というのだが、全く素人の中学生にはいわれたとおりに笑い声を入れるのは大変むずかしかった。
高島先生には、山階研の標本を見せていただいた。研究用の標本だから一般的な剥製と異なり、棒状にまとめられたものであり、木製の引き出しに並べられていた。その中にはハチドリの標本もあり、なるほど小さな鳥だなと感じたものだ。その後私はロサンジェルスのUCLAにポスドクとして留学したのだが、大学のキャンパスにはハチドリが飛んできて、ホバリングしながら花の蜜を吸っていた。その様子を見て、中学生のときに山階研のハチドリの標本を見せていただいたのを思い出した。
その後、山階研も千葉県に移転し、渋谷の街もすっかり変貌した。
(文 はやし・しんじ)