2022年4月7日掲載
鳥類標識調査は、番号付きの足環などを野鳥に装着して放すことで、渡りや寿命など、鳥類の基礎データを得る、保全上も重要な調査です。山階鳥研で、ヤンバルクイナの新種記載などに貢献された真野徹さんは、戦争での中断を経て1961年に林野庁によって再開された鳥類標識調査が、1972年、環境庁(当時)発足とともに拡大した時期にこの調査に携わられました。真野さんに標識調査に携わったいきさつや仕事の実際、さらに当時の山階鳥研について執筆いただきました。
山階鳥研元職員 真野 徹
私が山階鳥類研究所(以降鳥研と記す)に在職したのは1972年8月から1984年9月までの12年間でした。環境庁が発足し、林野庁から引き継がれた鳥類標識調査の事業が大幅に拡大され、人手不足から職員が必要になったタイミングに裏口から滑り込んだのが実情だと思います。
鳥研と関わることになったのは、私が愛知県岡崎市にあった製薬会社に勤め始めた頃、市内を流れる矢作川(やはぎがわ)に架かる国道1号線の矢作橋に、冬になると集まるハクセキレイ数千羽の塒(ねぐら)を見つけたのがきっかけでした。その塒がNHKの「自然のアルバム」に取り上げられ、放送をご覧になった山階芳麿 所長が、標識室の吉井正(まさし)室長に、現場を見に行くよう伝えたと聞いています。1966年3月に吉井室長が蓮尾嘉彪(よしたけ)所員、韓国の研究者 禹漢貞氏(ウハンチョン)を伴いハクセキレイの捕獲標識を実施した際に、たまたま矢作橋を通りかかった友人から連絡を受けた私は翌日の早朝現場に駆けつけ、調査の手伝いをすることとなりました。以降、毎年11月から3月までの冬季に毎月実施された調査すべてに参加しています。厳冬期の早朝(夜明け前)は寒さが厳しく、鉄製の橋の欄干に指を置くと張り付いて、ベリベリはがすという感じでした。矢作橋は日吉丸(後の豊臣秀吉)が蜂須賀小六(はちすかころく)と出会った逸話が有名で、吉井室長は私との出会いをこの逸話になぞらえていたそうです。そのようなことから鳥研に誘ってもらったものと思います。
標識室では蓮尾所員は既に転職され、杉森文夫 所員が在籍していました。研究室の仕事は、戸惑いも多くありましたが先輩の杉森所員から教えを受けながらなんとか覚えてゆきました。主な仕事は日本各地に点在する鳥類観測ステーションでの、鳥類捕獲と標識作業で、旅費仮払い計算、調査地での作業と共に調査記録を取り、調査終了後、鳥研へ戻り、費用の清算、調査記録の整理(当時は手書きで、調査時に記録したオリジナルシートのデータを、番号順のバンデッドレコードと、種類ごとのスピーシーズレコードという用紙に転記していました)。成果が挙がれば挙がるほど、後の記録整理が大変になる作業の連続です。年度の終わりが近づくと環境庁への事業報告と、経理報告がとてつもなく大変で、毎日夜遅くまで作業し、時には徹夜で頑張ったこともありました。収拾がつかなくて環境庁の担当官2名が応援に来てくれたのも思い出されます。
そのような仕事を12年間続けましたが、父親の病気で母親が困っていたので退職を決断しました。退職後も鳥類標識調査をボランティアとして続け、2018年11月、体力の減退から、地元での調査を最後に鳥類標識調査から引退することにしました。1966年3月の矢作橋でのハクセキレイ調査以来、実に52年間継続することができ、人生の大半を鳥類と関わり過ごせた幸せを感じています。
(文・写真 まの・とおる)