読み物コーナー

創立90周年記念企画

2022年5月12日掲載

山階鳥類研究所で思い出すこと

山階鳥研の創立者の山階芳麿は、現代の言葉で「生息域外保全」と呼ばれる、飼育下での増殖の重要性を、社会的には必ずしも認知度が高くない頃から認識して、 野生鳥類保護における動物園との協力を推進しました。また動物園で死亡した鳥類の寄贈を積極的にお願いして標本や研究材料として活用することに努めました。東京都多摩動物公園、恩賜上野動物園の園長を歴任された齋藤勝さんに山階鳥研についての思い出を執筆していただきました。

山階鳥研ニュース」2022年5月号より

写真:齋藤勝氏(公財)東京動物園協会顧問
(公財)日本動物園水族館協会会友
齋藤 勝

山階鳥類研究所が渋谷にあること、鳥類学者の山階芳麿博士のことももちろん知ってはいたが、学生時代の私には若干敷居(しきい)が高く、訪れることもなく、山階先生に直接話をすることもなかった。

私は大学を卒業したら、子供の頃からの夢であった動物園で働く希望を持っていた。獣医学部の学生時代、上野動物園には実習生として毎日通っており、古賀忠道園長(注1)とは園内でお会いするチャンスもあったが、山階博士には親しくお話をうかがうようなことはなかった。

そのように過ごしていた、昭和37(1962)年頃だったと思う。上野動物園に呼ばれ、古賀忠道博士、山階芳麿博士にお会いする機会があった。当日、やはり動物園に就職を希望していたS氏とおそるおそる園長室に顔を出した。両博士の間では、トキの飼育下繁殖の話がかなり進んでおり、人材を捜していたのではと後になり気がついたが、動物園で働きたいというような話をした記憶がある。

当時、日本でのトキは佐渡と能登に生息していたが、年々その数が減少しており(注2)、心配される時代であった。古賀・山階両博士はこのまま手をこまねいていては近い将来トキは絶滅の道を歩むことになり、何とか人の手による繁殖をと考えられていたと思われた。トキ類の飼育下繁殖は、世界的には、当時、スイスのバーゼル動物園においてホオアカトキの繁殖に成功しており、上野動物園に日本産のトキの参考にと一つがいのホオアカトキを送ってくれるほどであった。

写真:ホオアカトキ

ホオアカトキ

当日だったと覚えているが、動物園での話の後、渋谷で夕食をいただいた。山階先生は鳥研の中を案内して下さり、かつてここではアフリカ産のハタオリドリ類を飼育していたという話をうかがったことなどが記憶に残っている。

その後、運良く動物園で仕事ができるようになり、多摩動物公園に移ってから鳥研とのつきあいが多くなった。特に鳥類標本を収集している鳥研のために、飼育している鳥類の死亡個体が出ると標本用に連絡することが役目のようになっていた。

古賀・山階両博士が人工増殖の方法を採用することを強く主張されたことから、東京の動物園では、トキの飼育繁殖の技術開発が大きなテーマとなった。手始めに、トキ類の繁殖で実績のあったバーゼル動物園で使用していた人工飼料を導入することになり、アカアシトキ4羽が多摩動物公園にもたらされた。この人工飼料は獣肉をベースとするもので、バーゼル動物園では馬肉を使っているということだったが、当時、日本の動物園で飼育される肉食獣の餌はクジラの肉が利用されており、トキ類の人工飼料にもクジラ肉を使用することになった。

クジラ肉を利用した人工飼料で飼育したアカアシトキ4羽は普通に採食するものの、繁殖には至らず、後に4羽全て死亡してしまった。このアカアシトキを何とか再度入手し、繁殖につなげようと思っていたが、ついぞ手に入れることできず、残念な思いをした。

動物園の仕事から離れて久しくなるが、トキ用人工飼料で飼育を試みたアカアシトキにはその後お目にかかることがなくタイのドゥシット動物園で1羽のエリジロアカアシトキ(カタジロトキ(注3))を見たのみである。我国のトキの野生復帰を喜ぶとともに悔まれることのひとつでもある。

この原稿を書きながら、佐渡の空を舞うトキを思い返すと、アカアシトキで苦労した経験とともに、あらためて、飼育下でのトキの繁殖の重要性を早くから主張された山階芳麿先生のお姿を思い出すのである。

(文 さいとう・まさる)
(写真提供(公財)東京動物園協会)

(注1) 古賀忠道(1903〜1986)。1937年から1962年まで25年間、上野動物園長を務めた。

(注2) 「トキ 永遠なる飛翔」(近辻宏帰(総監修)、2002、ニュートンプレス)には1962年の個体数として佐渡6羽、能登3羽という数字が掲載されている(150頁)。

(注3)インドから東南アジアに分布するアカアシトキのうち、分布の東側である東南アジアに生息する、後頭部から喉にかけての皮膚が灰青色の亜種(地理的に区別できるグループ)。

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