読み物コーナー

創立90周年記念企画

2022年8月18日掲載

南平台―あの懐かしき日々

南平台の山階鳥研には、現在と同様、さまざまな専攻を持つ研究者が集っていました。山階鳥研で生理学の研究室の立ち上げに携わり、諸説あったトキの羽色変化の機構を明らかにした内田康夫さんに在職当時の回想を執筆いただきました。

山階鳥研ニュース」2022年7月号より

写真:内田康夫氏元埼玉医科大学教授・駿河台大学名誉教授
内田康夫

幼い頃から生きもの好きでした。クリスマス・プレゼントには、とり図鑑や花図鑑をほしがったものです。小学校の3年生くらいで内田清之助、黒田長禮(ながみち)、牧野富太郎、古川晴男といった名前を知っていました。4年生の時、隣家のおばさんが小ぶりの本をくれました。中西悟堂「野鳥ガイド」でした。5年生になった時、新しい担任の先生が来られました。加藤騰太(とうた) 先生――セミ学の泰斗(たいと)加藤正世(まさよ)博士の息子さんでした。5〜6年生の時は昆虫採集に明け暮れる毎日でした。

中学2年の頃、伯父の家の隣家だった元華族の木下利福(りふく)氏(木下藤吉郎の末裔(まつえい))宅へ伺いました。書架に侯爵(こうしゃく)山階芳麿「日本の鳥類と其の生態」がありました。

昭和34(1959)年、大学1年の秋、その前年に入会していた日本野鳥の会の探鳥会に初めて参加しました。冬鳥の渡来が始まった長野県塩尻峠でした。憧れの中西悟堂先生は予想通りの飄々(ひょうひょう)とした方でした。そこで野外識別の第一人者という高野伸二さんに出会いました。翌春から、識別最難関というシギ・チドリ類に挑戦、場所は千葉県浦安から行徳(ぎょうとく)にかけての広大な干潟、通称「新浜(しんはま)」(今、ディズニーランドに変貌)、指導は高野さんをリーダーとする新浜グループの面々でした。

一方、大学では、特別講義として浦本昌紀(まさのり)さんの授業を受けました。コンラート・ローレンツやニコ・ティンバーゲンらによる最新の動物行動学の解説でした(ローレンツらは後にノーベル賞を受賞しています)。

私が初めて南平台の山階鳥類研究所を訪れたのは、その頃です。そこには日本野鳥の会の事務局があり、日本鳥類保護連盟(会長山階芳麿)の本部がありました。高野さんはその本部の職員、浦本さんは研究所の研究員でした。さらに研究所事務局には厳しい雰囲気の高島春雄氏や優しげな松山資郎氏がおられました。研究所で鳥学会の例会がある時は、山階所長はもちろんのこと、長老格の内田清之助、黒田長禮氏ら、研究員の黒田長久氏(長禮氏の御子息)、もと華族の鷹司(たかつかさ)信輔・清棲幸保(きよすゆきやす)氏ら、さらに生態映画の下村兼史(けんじ)・鳥声録音の蒲谷(かばや)鶴彦氏ら錚々(そうそう)たる顔ぶれでした。

写真:カンムリツクシガモの標本

世界に標本が3点しかないカンムリツクシガモの雄(左)と雌(所蔵・写真:山階鳥研)

この鳥研のもう一つの大きな魅力、それは2階フロア全面を占める東洋一の鳥類標本室です。国内はもちろん、東アジアから西部太平洋諸島全域の鳥類が網羅的に収集されています。今も目に浮かぶのはカンムリツクシガモ雌雄一対の美しい本剝製(はくせい)です。これは朝鮮で採集され、黒田侯爵家の秘蔵品となりましたが、東京大空襲で同家が被災し、戦禍をくぐり抜けて被災を免れた南平台へ送り届けられた標本でした。また、ミヤコショウビン1点があります。同種はこの1点を残したまま絶滅しました。その嘴(くちばし)は今、外側の鞘が脱落して日干しのような黄褐色の骨が見えていますが、生時の嘴はどんな色だったか永遠の謎となりました。

鳥研の仕事に私が初めて関わったのは、昭和36(1961)年、大学3年生の時に浦本さんの助手として行った伊豆の鳥島でのアホウドリの標識作業でした。アホウドリは昭和24(1949)年、一度絶滅が宣言され、その2年後再発見となり、我々が行なった幼鳥1羽への標識が戦後の同種標識の第1号となりました。以後、同種は関係者の尽力のおかげで増加し、平成20(2008)年からの聟島(むこじま)への分散作戦へと発展したのです。作戦は今、成功しています。

昭和44(1969)年、鳥学会からのノグチゲラ調査の要請を受け、私は復帰前の沖縄本島へ赴きました。ノグチゲラはやんばる各地に健在でした。その調査中、与那覇(よなは)岳山麓の林道で前方を横切った大型の黒っぽいクイナをチラッと見ましたが、該当種不明でした。これが、昭和56(1981)年、真野徹さんらが新種と発表したヤンバルクイナだったのです。

図:クイナのデッサン

(文・図 うちだ・やすお)

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