読み物コーナー

創立90周年記念企画

2022年10月12日掲載

山階先生の先見性

1973年から、サントリー株式会社(現サントリーホールディングス株式会社)は、当時、山階芳麿 山階鳥研所長が会長を務めていた日本鳥類保護連盟の指導のもと、愛鳥を通じて環境保全を訴える「愛鳥キャンペーン(注)」を開始しました。当時は環境問題の重要性を正面から取り上げる企業はないに等しく、キャンペーンは、商品の紹介をまったくせずに野鳥保護だけを訴えた、意欲的な新聞広告などで大きな注目を集めました。同社でこの愛鳥キャンペーンの担当を長く務め、その関係で、山階鳥研に足繁く通われた、筒井 眞さんに当時の思い出を執筆いただきました。

山階鳥研ニュース」2022年9月号より

元 サントリー(株)愛鳥キャンペーン担当
元 山階鳥類研究所監事
筒井 眞

鳥の減る国、ふえる国

写真:筒井 眞氏私はサントリー「愛鳥キャンペーン」の2代目の担当者です。このキャンペーンが1973年に始まり、何とか体裁が整った、2年後の75年に正式に引き継ぎ、96年まで23年余り、山階鳥類研究所(以下「研究所」)および日本鳥類保護連盟(以下「連盟」)にかかわって参りました。

当時研究所の所長、連盟の会長としてご指導いただいた山階芳麿 先生を思い出すたび、真っ先に思い出すのは、先生の先見性です。現在の日本は、自然保護や野生動植物の保護の分野で、いろいろと問題はありますが、初めて先生にご挨拶した当時と比べますと、テレビにしろ、新聞にしろ、メディアの鳥に関する報道は「鳥が棲める環境は人にも善なり」という論調が浸透してきました。私どもの調査で、朝日新聞の朝夕刊で鳥が扱われた件数を72年と80年で比較したところ、80年には、111件から169件と増えていました。そして、この期間に、鳥を見る人々の数は、日本野鳥の会と連盟の会員数が5,800人から18,400人に、鳥に関する出版点数は13点から53点と急増しています。

「これからは、鳥を保護することが文化国家であり、立派な企業だという評価の時代になります、早くそういう社会にしたいものです」と山階先生はおっしゃいました。半世紀経って、社会は確実に山階先生のおっしゃった方向に進んでいると感じます。先生のこのお言葉を伺ったのが、私の愛鳥キャンペーンに対する姿勢をつくった瞬間でした。

写真:

サントリー白州工場(山梨県北杜市)に併設されたバードサンクチュアリ(野鳥の聖域)で、日本鳥類保護連盟の一行を案内する筆者(左端)。右から2人目が山階先生(1977年10月5日)。

リエゾン・オフィサー

私は担当者として都内渋谷区南平台の、研究所の2階にあった連盟に通い続けました。連盟の柳澤紀夫 指導部長と打合せをするためです。時として一日2、3回も、当時会社のあった赤坂見附と南平台を往復することもあり、「リエゾン・オフィサー」を自称しておりました。連盟での打合せのあと、山階先生がおいでならば、研究所の1階の所長室に先生をお訪ねいたします。そこでは松山資郎 資料室長と打合せ中の先生のお姿があり、当方の、つまらない報告や連絡を先に聞いていただきました。

当時の日本では、経済成長に伴って、生息環境が失われ、野鳥が減少を続けていましたが、山階先生は欧米の野鳥保護の現状を視察して、生息環境が守られるとともに、野鳥が大切にされ、人を見ても逃げないようすを、著書「鳥の減る国、ふえる国」(1967)で紹介されました。その精神を体験しようと、77年にロンドンを訪ねました。高浜虚子が36年にロンドンで詠んだ「雀等(すずめら)も人を恐れぬ国の春」の情景をグリーンパークで実際に見て感激、王立植物園キューガーデンの片隅にある、この虚子句碑を見に行き、帰国して山階先生に報告、先生は「それはよかったですね」と喜んでくださいました。

研究所の強兵

当時は黒田長久 先生を筆頭に、吉井正(まさし)標識室長、松山 資料室長など、皆さん温厚な紳士ながら、鳥については強兵(つわもの)揃いでした。尾崎清明氏を始めとする現在の研究所の中心人材が若手として活躍し、ヤンバルクイナ、トキなどで実績を積みあげておられ、活気がありました。研究所の我孫子移転後になりますが、小林さやか氏は入所の折から知り合った関係で、このたびの「博士」の学位取得には大拍手です。これも研究所の良き伝統でしょうか。

写真:高浜虚子

ロンドンの王立植物園キューガーデンにある高浜虚子の句碑。Even Sparrows/Freed from all fear of man/England in Spring/Kyoshi Takahama(1874-1959) と刻まれている。

(注)現在も「愛鳥活動」と改称して継続されています。

(写真提供・文 つつい・しん)

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