読み物コーナー

所員エッセー

2023年6月8日掲載

山階鳥研は2019年2月にハワイのビショップ博物館(Bernice Pauahi Bishop Museum)と連携協定を結びました(本紙2019年5月号参照)。これより79年も前の1940年に山階鳥研はビショップ博物館と交流していたことが、同館に残されていた手紙類からわかりました。当時の手紙を紐解(ひもと)いてみましょう。

80年前の手紙から紐解くハワイ・ビショップ博物館との交流

研究員 小林さやか

写真:ビショップ博物館

現在のハワイ・ビショップ博物館(北條政利氏提供)

きっかけは蜂須賀正氏の手紙

一連の手紙は、1940年1月22日に鳥類学者の蜂須賀正氏(はちすかまさうじ)が、ハワイと日本の鳥類標本の交換を打診する手紙を、ビショップ博物館のキュレーターであるブライアンJr.(Edwin Horace Bryan, Jr.)へ送ったことから始まります。蜂須賀は徳島藩主 蜂須賀家の第18代当主で、沖縄諸島と八重山諸島間の生物分布境界線である「蜂須賀線」を提唱した人物です。この前年には、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発していました。蜂須賀は手紙の中で、私の研究を継続するためには標本の交換しかないが、現在の世界情勢ではヨーロッパの博物館との交渉は不可能、と綴(つづ)っています。

蜂須賀からの手紙を受け取ったブライアンJr.は、同年2月6日付で蜂須賀宛に標本の交換に応じられる旨の返事をし、手紙と一緒に交換候補の標本のリストを送付しました。

写真:蜂須賀正氏

蜂須賀正氏(山階鳥研所蔵)

ビショップ博物館から標本到着

同年4月30日付の蜂須賀からブライアンJr.宛の手紙では、日本から送る標本について、当時日本領だった台湾、ミクロネシアと、伊豆七島産の鳥類標本リストを同封しました。蜂須賀は、山階鳥研の創設者である山階芳麿(やましなよしまろ)に自分の標本を預けていて、ビショップ博物館へ送る標本は山階が準備し、同館から送られた標本も山階家鳥類標本館(山階鳥研の前身)で保管する、と返事をしていました。

そして、同年5月17日付のブライアンJr. から蜂須賀宛の手紙では、ついにビショップ博物館から標本が送られます。この時送られた45点全てが現在も山階鳥研に所蔵されています。蜂須賀は標本を受け取った後、ブライアンJr.への手紙で書いたとおり、山階家標本館に標本を預けていたのでした。そして、贈られた標本の中には、現在では絶滅してしまったレイサンクイナやユミハシハワイミツスイが含まれ、山階鳥研の重要な財産となっています。

写真:ユミハシハワイミツスイ

ビショップ博物館と交換した標本・絶滅鳥のユミハシハワイミツスイ Hemignathus obscurus(山階鳥研所蔵)

山階が送った標本は?

私が見せてもらった手紙類は、1940年5月17日付で途絶えていて、山階からビショップ博物館へ標本を送ったかはわかりませんでした。そこで、同館へ問い合わせたところ、コレクションマネージャーのモーリー(Molly Hagemann)さんから、1940年に山階から送られた標本32点を所蔵していることを教えていただきました。山階からも標本を送り、同館との標本交換が成立していたことが確認できました。標本の産地はミクロネシア、台湾、小笠原、伊豆七島で、蜂須賀がブライアンJr.に手紙で綴ったとおりでした。

ビショップ博物館に標本交換当時の手紙が残されていたことで、当時の経緯を鮮明に紐解くことができました。この標本交換によって山階鳥研は同館と良好な関係を築いていたと思います。しかし、翌41年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃したことで、太平洋戦争に発展していきます。戦争によって、ビショップ博物館との交流は途絶えざるを得なかったことでしょう。

(文 こばやし・さやか)

「山階鳥研ニュース」 2023年5月号より

<関連ページ>山階鳥研連携協定一覧のページ

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