第22回 山階芳麿賞 記念シンポジウム

「ガンが渡る風景を日本の空にもう一度 〜絶滅から復活の道を歩み始めた日本のガンと、日本雁を保護する会 52年間の活動〜」

2022年9月23日(金・祝)
【主催】(公財)山階鳥類研究所 【共催】朝日新聞社 【後援】我孫子市

2023年3月9日更新

2022年9月23日、東京大学弥生講堂で、第22回山階芳麿賞記念シンポジウム「ガンが渡る風景を日本の空にもう一度〜絶滅から復活の道を歩み始めた日本のガンと、日本雁を保護する会52年間の活動」を開催しました。受賞団体、日本雁を保護する会会長の呉地正行さん、同会の佐場野裕さん、須川恒さんの3名の演者が講演し、その後、質疑応答を行いました(本紙2022年11月号も参照)。ここでは講演の文字起こしを短縮してまとめたものを掲載してご報告します。講演のまとめはそれぞれの演者にお願いし、質疑応答は広報でまとめました。

山階鳥研NEWS 2023年1月号より)

「日本へ渡るガン類の歴史的変遷とその保全・復活の取り組み」

呉地正行会長

日本雁を保護する会会長 呉地正行

ただいまご紹介いただいた「日本雁を保護する会」の呉地といいます。今回、保護する会として立派な賞をいただき、大変感激しています。

今日は、私が全体的な活動の報告を行い、その後に二人からそれぞれのテーマについての話をさせていただきます。

日本雁を保護する会では、ガンという鳥を、未来に受け渡すために必要な調査研究、環境の保全、及び提言や行政との協働活動に力を入れてきました。また国境を越えて移動するガンたちに対応した、国際的な人間のネットワークもつくりあげてきました。

ガン類は、カモやハクチョウの仲間で、その多くが、レッドデータブックに掲載されている絶滅の可能性が高い鳥です。これまでに11種が日本で記録され、マガン、ヒシクイ、コクガンの順に数が多く、最近は絶滅から復活したシジュウカラガン、ハクガンやカリガネも群れで確認されています。

ガンは気候変動にも敏感に反応するので、ガン類のモニタリングを通じて、気候変動を可視化できることも分かってきました。

ガンは、詩歌や絵画に多く登場し、ガンに由来する家紋、言葉、食べ物なども多く、日本の基層文化の中に深く溶け込んでいることが分かります。例えば万葉集には各地で詠まれたガンの歌が66種もあり、その当時は全国にガンのいる風景があったことがわかります。

しかし、乱獲や湿地の干拓などで1970年代になると、日本のガンは絶滅の危機を迎えました。様々な団体の働き掛けで、71年に狩猟禁止と天然記念物指定という保護措置が取られ、絶滅の危機を免れましたが、シジュウカラガンやハクガンのように既に群れの渡来が途絶えてしまった種類もいます。

1970年~71年はガンたちにとって大きな転換期となり、この年を境に羽数減少から増加に転じました。また当時最大級の越冬地だった仙台市福田町の保護区でガンを密猟から守るために福田町の雁を保護する会(後の日本雁を保護する会)が、設立されたのもこの年です。

次は種別の話をします。ヒシクイ Anser fabalis というガンは二つの亜種が飛来します。以前は日本へ飛来するのは主に亜種ヒシクイ A. f. serrirostris だけだと言われていましたが、私たちの調査で生態が異なる2亜種がいることが分かりました。

亜種のヒシクイ A. f. serrirostris は、首が短く、嘴(くちばし)も太くて短く、開けたツンドラ地帯を繁殖地とし、陸上生活に適応したガンです。

一方、亜種オオヒシクイ A. f. middendorffii は、首も嘴も長く、体形がハクチョウに似たガンで、タイガ地帯の湖沼を繁殖地とする沼の鳥で、沼地の水草の根茎部や種子などを好んで食べるガンです。

オオヒシクイは、日本には少数しか飛来しないと考えられていたのですが、私たちが実際に調べてみると、日本海側で見られるものの大多数がオオヒシクイで、太平洋側には亜種ヒシクイの大多数と一部オオヒシクイが分布し、地理的にも分布が異なることと、日本の「ヒシクイ」の半数以上がオオヒシクイだということが分かりました。

これらの「ヒシクイ」がどこから渡ってくるのか、渡り経路については、その後の標識調査(注)でカムチャツカ半島の西海岸の群れが日本へ渡来することが分かりました。

カムチャツカの西海岸には「ヒシクイ」が生息する湿地が多数ありますが、その中の2カ所が日本の群れと強い関係を持つことがわかりました。その一つが、カムチャツカ半島の南端に近い、南西ツンドラ禁猟区です。ここは二つの亜種の換羽(かんう)地で、翼の羽が一斉に抜け落ちる換羽期に多数の「ヒシクイ」が集まる場所です。もう一つが、西海岸中部のモロシェチナヤ川禁猟区で、亜種オオヒシクイの換羽地になっているところです。この2カ所で首環標識をつけると、ほとんど全ての個体が日本で見つかり、日本とのつながりが非常に深いことが分かりました。

次はマガンです。ガンの中で最も数が多く、増加傾向も顕著です。越冬地での生活は、夜は伊豆沼、蕪栗(かぶくり)沼、化女(けじょ)沼などをねぐらとし、早朝に沼を飛び立ち、日中は主に周辺の水田地帯で採食し、夕方になるとねぐらに戻ってくる。このような生活を繰り返しています。

ガンの日中の生活圏は、全体の8割程度が、ねぐらの沼から10㎞以内の田んぼなどの農地を利用しています。宮城県にはかつて多数の沼がありましたが、100年間でその92%が消失し、それがガン類の分布拡大を困難とし、特定湖沼への一極集中を強いる結果となっています。

一極集中は、二つの面で問題になります。鳥自身にとっては、そこで感染症などが起きると一夜にして群れが全滅する危険が高まること、また人間との関わりに関しては、農業被害問題が大きくなる可能性が高まることです。そこで鳥のためにも、人のためにもガンの群れを分散させることが、持続可能な関係をつくる上で重要となります。

この課題解決をめざす取り組みから生まれたのが、「ふゆみずたんぼ」です。田んぼには夏は稲を育てるために水が張られ、農地としては使わない冬は乾かしておくのが普通です。そこでガンたちが渡ってくる冬の間、田んぼに水を張れば、そこがガンなどの新たなねぐらとなり、その周辺水田が新たな採食地になり、それをネットワーク化することでガンの分布が広げられるだろうと考えました。実際に冬の田んぼに水を張ると、ハクチョウ、カモ、そしてガンも生息地として使うようになりました。同時に様々な切り口での総合調査も行いました。その結果、生き物の生息環境を回復し、生き物の力を生かした持続可能な新しい農法となることが分かってきました。

今まではガンは農業の害鳥と考えていた農家が、ガンを自然資源として活かし、付加価値の高い農業をやろうと考えるようになってきました。

日本へ渡るマガンの移動経路については、1994年に人工衛星用の発信器を使い、米国の研究者と共同で行いました。

その結果、宮城県で越冬したマガンは、秋田の八郎潟、北海道の宮島沼を経由し、オホーツク海を一気に越えてカムチャツカ半島東海岸へ移動し、そこからさらにチュコト半島南部沿岸のツンドラ地帯まで約4,000㎞を渡ることが分かりました。

ガンの行動が気候変動の影響を受けて変わってきたことも分かってきました。具体的には、特にマガンの羽数急増は保護効果だけでなく、繁殖地の気候変動の影響があると思われます。

また越冬地の滞在期間が短くなり、越冬地が北上し、中継地が越冬地化する傾向も顕著です。

宮城県で越冬しているマガンの1970年代~90年代の越冬パターンを、10年ごとに比較しました。90年代になると、越冬地への渡来時期が遅く、渡去時期が早くなる傾向が顕著になりました。中継地の秋田県・小友(おとも)沼では、90年代になると、冬も南に渡らないガンが現れるようになり、その背景には冬の最低気温の上昇と積雪深の減少が影響していることが分かりました。

亜種のヒシクイとオオヒシクイについても越冬地北上の傾向ははっきり出ています。

シジュウカラガンについては、40年間の取組をまとめ、『シジュウカラガン物語』(注2)(京都通信社、 2021)として出版しました。

シジュウカラガンはかつて千島とアリューシャン列島で繁殖し、日本には千島の群れが多数飛来し、江戸時代の図鑑・観文禽譜(かんぶんきんぷ・1794年)には「10羽のうち7~8羽がシジュウカラガン」と記載され、1922年には関東でも100羽を超える群れが記録され、1935年頃までは仙台周辺で数百羽が記録されていますが、その後は群れとしての記録は途絶えてしまいました。その原因は、20世紀初頭に繁殖地の島々に毛皮目的で多数放されたキツネに捕食されてしまったためです。そのために1938年には絶滅したと考えられていましたが、1962年に奇跡的に生き残った小群が発見されました。それを元に、回復計画が米国で始まり、日本でもその一部を譲り受け、1983年に回復計画を開始しました。1995〜2010年に日ロ米3国共同で繁殖地の千島へ551羽(13回)を放鳥しました。当初は成果が上がりませんでしたが、2007年に放鳥個体が家族群となって飛来し、その後年々羽数が増加し、現在日本への渡来数は1万羽近くまで復活しました。その一方で課題も出てきました。シジュウカラガンの近縁種で、日本で野生化し特定外来種に指定されたカナダガン大型亜種との交雑が危惧されるようになったので、カナダガン調査グループと協働して、「増やそうシジュウカラガン、減らそうカナダガン」キャンペーンを行い、全てのカナダガンを野外から除去することに成功しました。

繁殖地の千島では、放鳥を行ったエカルマ島やそれ以外の島でもシジュウカラガンの姿が確認されるようになりました。繁殖地の調査はまだ不十分ですが、千島ツアーの参加者により2018年8月に、エカルマ島に近いシャスコタン島の沖合で幼鳥を多く含むシジュウカラガンの群れが発見され、2019年6月に、エカルマ島にシジュウカラガンが生息していることも確認されました。

この計画のゴールは、千島の島々にシジュウカラガンの繁殖群を復活させ、 日本の空にシジュウカラガンのいる風景を甦(よみがえ)らせることです。具体項目は、(1)個体数の増加(>1,000羽)、 (2)越冬地の保全と復元、(3)繁殖地の分布拡大、(4)啓発普及、(5)外来種対策、です。この計画の進捗状況を整理すると、(1)は、完全にクリアでき、(2)は、「ふゆみずたんぼ」等の取り組み等、順調に進み、現在は伝統的な越冬地である七北田(ななきた)低地(仙台市・多賀城市)への群れを呼び戻す運動に取り組んでいます。(3)については、断片的な観察情報とGPS発信器による情報から手掛かりは得られていますが、本格的な調査を今後行う必要があります。(4)は今後も継続し、(5)は問題解決済みです。

まだ、お話をしたいことがあるのですが、時間になったので、私の話はこれで終わりにします。話しきれなかった部分は『シジュウカラガン物語』(注2)をぜひご一読ください。

(注)標識調査 鳥に番号付きの金属足環などの標識をつけて放鳥し、再び回収(標識のついた鳥を見つけその番号を確認)することで、鳥の渡りや寿命などの生態の情報を調べる調査。ガン類の場合には金属足環と、野外観察で確認可能な、番号付きのプラスチック製の首環や足環を併用することが多い。標識調査に従事する人をバンダーと呼ぶ。

シジュウカラガン物語(注2)シジュウカラガン物語 呉地正行・須川恒(編)京都通信社/2021年/A5判/304頁/定価:2,970円(税込)/ISBN: 978-4-9034-7362-8 >>出版社サイト


「東アジアのハクガン復元の取り組みとその成果」

佐場野裕さん

日本雁を保護する会 佐場野裕

ハクガンは、現在の日本ではごく限られた地域でしか見ることのできない存在で、環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧IA類として記載される希少種です。しかし、かつての日本では、マガンと同様にごく普通の存在であったことが、絵画や狩猟の記録等の資料から推察されます。明治時代には、東京湾沿岸部でのハクガンの観察記録が残されていて、130年前の明治初期(1890年代)までは、ハクガンが冬鳥として渡ってきていたことがわかっています。しかし、明治になると、開発による生息地の消失と乱獲のために、ハクガンの日本への定期的な渡りは消滅してしまいます。それまでは一部の階層に制限されていた狩猟が、一般人でも可能となったことで乱獲が始まり、特に白くて大きいハクガンは集中的に狙われたと考えられます。また、同時に、北東アジアのハクガンの繁殖地でも、狩猟による乱獲に加え、ツンドラ地帯にトナカイの放牧が導入され、ハクガンの繁殖環境を破壊したこともハクガンの群れをアジアから消滅させた原因と考えられています。

日本への渡りが消滅した後は、アジアで唯一、北極海に浮かぶウランゲル島で約6万羽のハクガンが集団繁殖しているのですが、この群は北米大陸の西海岸に渡って越冬します。つまり、アジアで繁殖し、アジアで越冬するという個体群とは異なるものです。このような事情を背景に、以前よりロシア側には、気候の厳しいウランゲル島で不安定な状態で繁殖しているハクガンを、かつての大陸にあった繁殖地に復元させたいという意向があり、また、日本としても人間の手で消滅に追いやったハクガンを復元させたいと思っていましたので、互いに協力してその復元に取り組むという計画が立ち上がりました。この計画は、ハクガン羽数回復計画で実績のある、アメリカの研究者も協力する国際共同計画としてスタートします。

具体的なハクガン復元の方策を検討する会議が、1993年1月に仙台で行われ、協議の結果、実行案として採用されたのがマガンを仮親とする仮親方式です。ガン類は、渡りのルートを親と一緒に行動しながら学習するので、日本に渡ってくるマガンに親になってもらい、ハクガンの子供たちを日本に連れてきてもらうという、ガン類に特有な習性をうまく組み合わせた方法です。

実際にこの方法は93年のガン類の繁殖期に実行されました。93年6月、ウランゲ島からハクガンの卵100個をヘリコプターで、日本に渡るマガンの繁殖地であるアナディリ低地に運び、そこにあるマガンの6つの巣で、ハクガンの卵合計41個を交換することができました。残りの卵は孵卵器(ふらんき)で孵化(ふか)させ、孵(かえ)った雛(ひな)には青色の足環標識をつけて、マガンが繁殖している場所で放鳥しました。そうした結果、翌年の夏、アナディリ低地に戻ってきたハクガン20羽が確認されました。

この中には青色の足環標識をつけたものと、マガンの巣で孵化したハクガンがマガンの親と一緒に戻ってきたものの両方が含まれていました。さらに3年後には、放鳥した場所から約100km南の場所で、2つのハクガンの家族群が見つかっています。その成鳥の1羽には青色の標識が認められ、計画で放鳥された個体が成鳥になってつがいを形成し、家族群となって子供を育てるまでになっていることが確かめられました。また、その後もアナディリ低地ではハクガンの群れが観察されていて、順調にこの辺りでハクガンが繁殖しているものと思われます。

越冬地の日本では、復元計画を行った93年の冬に、早速、伊豆沼などにハクガン幼鳥3羽が飛来しました。95年から98年までの4シーズンには、片野鴨池で青色の足環標識をつけたハクガンが越冬しました。日本で越冬するハクガンは、計画が始まる前には定期的な飛来はなく、迷鳥として飛来する状況だったのですが、93年を境に、毎年、定期的に飛来するようになり、その数は次第に増加しています。このようなことから、本計画によって、アナディリ低地周辺で繁殖し、アジアで越冬するハクガンの個体群が復元されたものと考えています。

残る課題は、日本に渡来するハクガンの繁殖地の解明と、越冬するハクガンの生息地の拡大です。隅田川河口などの東京湾沿岸の湿地は、江戸時代から明治初期までは国内有数のハクガン生息地でした。2015/2016冬期には、東京湾周辺では58年ぶりに、ハクガンの幼鳥3羽が荒川河川敷に飛来し、越冬しました。そこで、東京湾沿岸の湿地環境をガン類が生息できるように改善することで、再び、東京の空をハクガンが舞う姿を見ることも夢ではないと思われます。

「ガン類の渡りを解明する国際共同調査への架け橋」

須川恒さん

日本雁を保護する会 須川恒

ここ数年は呉地さんと『シジュウカラガン物語』を編集し昨年出版できました。

シジュウカラガンの物語の全貌は100年の歴史があります。日本から、アメリカから、ロシアからの情報を全部書き込んで、やっと物語の全貌が見えてきました。

1978年からバンダーの資格を取り、京都市鴨川で見つかった足環のついたユリカモメの探索をバンダーとしての最初のテーマにしました。山階鳥類研究所標識研究室長の吉井正(まさし)さんのお手伝いもあって、カムチャツカのニコライ・ゲラシモフさんが標識者だとわかり交流がはじまりました。

私は、1970年代から琵琶湖の水鳥にずっと関心を持ち、琵琶湖一周をカウントする調査もしました。水鳥から見て一番重要な場所は琵琶湖の湖北地方です。ここは定期的にガンの一亜種オオヒシクイがやってきてガン類の渡来南限地です。ßところが湖岸堤建設とか密猟とか、ガン類を巡る、地元の力だけでは解決できないさまざまな問題があり、1982年に呉地さんらと出会い、「雁を保護する会」と連携することで問題解決につながり、その後会とのつながりができました。

82年8月にモスクワ大学で開催された国際鳥学会議に参加しました。須川とニコライ・ゲラシモフの共同で極東のユリカモメの増加についてポスター発表をしました。まだ冷戦の時代でカムチャツカには行けなかった時代ですが。鳥学者間の信頼関係はでき、ガン類の共同調査への道も開けました。

1986年からの日ソ共同のヒシクイの首環標識調査がはじまり、91年から夢のカムチャツカにも行けるようになりました。ズベズドカン湖などへ、ヘリコプターで行きました。ガン類の調査の後にユリカモメのコロニーの訪問もしてカラー・リング(色足環)をヒナへ標識しました。日本鳥類標識協会の日ロ共同調査が1997~2000年にかけてゲラシモフ親子らの協力のもと実施されました。

国内のガン類渡来地は50カ所ぐらいしか残っていないのに、多くの問題を抱えていました。「ガン類渡来地目録」を1994年に出版し、全体を俯瞰(ふかん)して、ガン類渡来地の重要性をアピールしました。その結果、開発は抑制され、教育や観光の場として活用するといった劇的な変化が生まれました。

ラムサール条約も湿地目録をつくって現況を俯瞰し、湿地保護に活かす作業をしています。1992年に大津(と釧路)でアジア湿地シンポジウムが開催され、私も琵琶湖の水鳥について報告し、呉地さんの参加をお誘いしました。このシンポジウムがきっかけとなり、琵琶湖は翌1993年、釧路で開催された第5回締約国会議で条約湿地になりました。その後、呉地さんは締約国会議に全部参加して、水田決議へのかかわりが大きく評価され、今年ラムサール賞(ワイズユース部門)を受賞しました。

1991年にソ連が崩壊し、ロシアの時代がはじまりました。経済崩壊のため研究所から給料も出なくなった状況でどのようにシジュウカラガン増殖施設の建設を開始するかが問題でした。その時、一人でカムチャツカを訪問して活動のはじまりを目にすることができました。

日ロ米の連携でシジュウカラガンやハクガンの渡りが復活したことは、深刻な対立構図の世界の現状の中で、注目すべき活動だと思います。平和の構築のためには、手掛かりとして渡り鳥の保護と湿地保護があります。地道に積み上げたら、大きな力になります。渡り鳥保護の流れは、二国間の渡り鳥条約など、鳥類標識調査も大切な活動です。日本が未参加のボン条約やACAP(アホウドリ類とミズナギドリ類の保全に関する協定)への参加は今後の大きな課題です。

湿地保護の流れではラムサール条約が重要です。各地の条約湿地を軸にした活動、国際的な活動でも「水田決議」は日本が重要な役割を果たしています。毎年2月前後の「世界湿地の日」への継続的かかわりも重要です。まとめると、山階鳥研が最近つかっているキャッチ「翼にたくす地球の未来」にとても近いと思います。

昭和の時代にできなかったことが、平成の時代には、冷戦構造の変化や、生物多様性を重視する方向ができ、シジュウカラガンなどの復活の大きな支えとなりました。全国の空に多様なガン類が舞う風景を取り戻すのが、これからの令和の課題であり夢だと思います。私たちの世代でやれることは限られていても、「日本雁を保護する会」の精神を引き継ごうとする次世代の人に期待します。

質疑応答

3題の講演のあと、Googleフォーム経由で会場から質問をお寄せいただき、質疑応答を行いました。

司会 質問をいただいています。越冬地での「ふゆみずたんぼ」の取り組みについて教えてください。

呉地 「ふゆみずたんぼ」についての農家の方の理解は簡単には得られませんでした。まず、農家の人に生き物調査を体験してもらうようにしました。生き物の豊かさが全然違うことを感じていただくことができ、理解していただきやすくなりました。もう一つ、全国で姿を消してしまったガンに選ばれた田んぼで取れたお米ですよという物語を乗せて販売すれば、付加価値があるお米になる、多少被害があったとしても、それの何十倍も大きな恩恵を生み出すことができるという話をする中で理解してくださるようになりました。農家は農家のためにやる。それが結果として鳥に恩恵をもたらすような方向付けすることによって、流れができてきたと思います。
「ふゆみずたんぼ」はガンの渡来地だけではないところでも広がっていっています。生物多様性が高まるので、薬剤に依存しなくても害虫のコントロールができる。コストも少なく安全な農作物を作ることができるということを農家の人が知ることによって、ガンと全く縁がない地域で、結構行われるようないい展開をしてくれたと思っています。

司会 1980年代後半から徐々に増えている、霞ケ浦の稲波(いなみ)干拓地のガンについて質問です。

呉地 稲波干拓地は関東で唯一の定期的なガンの渡来地で、渡来するオオヒシクイは、確かに増えてきています。北日本に来ているオオヒシクイはほとんどカムチャツカの西海岸から来ているというのが分かっているのですが、稲波干拓地のものは増加率が大きく、北日本に来ているものとは違う繁殖地から来ている可能性が高いと思います。

司会 渡り鳥全般について、気温や天候は年によって違うのに毎年同じような時期に移動するように見えるのはなぜかというご質問です。

呉地 繁殖地は冬の訪れが早いので、湖が凍るなど、限界点の寒さになると、それがきっかけになって移動するのが基本だと思います。どこまで南下したらいいのかという目安は、真冬の平均気温が零度というラインが当てはまると思います。

司会 ねぐらと採餌場の移動は誰か決まった個体が指示しているのでしょうかという質問についてお願いします。

呉地 昼間に田んぼにいるガンの家族の中では、そこで食べ物がなくなったからほかに行きたいというときには、1羽が首を振ります。同意をすると他の鳥も同じように首を振り、家族全員が首を振ると、群れの中からその家族だけが飛び立ちます。ただ、朝の日の出とともに群れが飛び立つときには、飛びたい衝動がかなり高まっているときに、1羽のガンが飛ぶとか、何かの信号がきっかけとなり一斉に飛び立ちます。

司会 日本のガンの種ごとの最近の個体数はまだ右肩上がりなのでしょうかというご質問です。

呉地 程度は違いますが増加傾向にあるといっていいと思います。マガンが一番顕著で、亜種オオヒシクイは漸増ぐらいという感じです。亜種ヒシクイは、越冬地の宮城の数が減っているのですが、秋田にはそれなりの数がいます。以前より北で冬を越すようになり、その背景に気候変動の問題があるので、状況に合わせた調査を考えていかなければいけないと思っています。シジュウカラガンは、今では1万羽くらい来ているのですが、最近は分布が広がりすぎて、これも調査方法を考えないといけないと思っています。

司会 東京の空にハクガンを呼び戻すまでのステップとして関東周辺で越冬地として目指せる地域が考えられるでしょうかというご質問です。

佐場野 具体的にはどこという場所はわかりませんが、ヒントになるようなことはいろいろあると思います。1年、2年ですぐ成果が出るものではないですから、まずはみんなが呼び戻したいという夢を持って、できることから変えていって、周りを見渡すといろいろな道筋が出てくると思います。

司会 これまでの活動で最も印象に残っていることは何か、全員にうかがいたいという質問です。

須川 1989年に日本に招待したゲラシモフさんが講演した際のスライドに、カムチャツカのズベズドカン湖で標識調査をしている写真があって、あそこに行けたらいいなと思ったのですが、それが91年に行けるようになって、本当に一緒にガンをつかまえているという夢の中に行っているようなことでした。

佐場野 最初にロシアのコリマ低地に行って亜種ヒシクイに標識した時、日本に飛来しなかったので、韓国の研究者と連絡を取り合って、韓国に行って自分たちで発見することができました。実際に自分がつけた標識を自分で確認したこと、国際的なつながりの中で成果がえられたということがうれしいことでした。

呉地 マガンの繁殖地のアナディリ川の支流に調査に行った際、ミカドガンという非常に珍しいガンを見つけました。ちょうど羽が抜ける時期で飛べないので、モーターボートで追い掛け、モーターボートを陸に乗り上げて、そのまま走っていって、何とかつかまえて、標識をつけて、放そうと思ってふっと振り返ったら、あるべきボートが川のうえを流れていっているのです。幸い水泳の得意なロシア人がかなりの距離を追いかけていって回収してきてくれたので、それで僕は今、ここにいられるわけですが、あのときのことは今でもよく思い出します。

司会 最後に一言ずつお願いします。

須川 カムチャツカでシジュウカラガンプロジェクトが始まった時、ゲラシモフさんは火中の栗を拾うようなことを始めてしまったと思います。ロシア科学アカデミーから給料が出ない、研究者全体が困っている、何とかしないといけないということで、それがその時点での動機だったと思います。お互いそれがあったから、現在があると思っています。

佐場野 東京にハクガンを呼び戻す会を立ち上げましょう!

呉地 何年か前から、ガンの渡りコース沿いにいる人たちに、ガンが飛んでいるのを見つけたら、その情報をフェイスブックのメッセンジャーで共有しようということを始めました。渡りコースを追って順に情報が集まり、関心のなかった人が鳥たちに関心を持ってくれます。新しいテクノロジーをうまく生かして裾野を広げることを運動としてやっていきたいなと思っています。

司会 本日はたいへんありがとうございました。

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